Neko

夢の汽車に乗って

プロフィール

yumenokisya

Author:yumenokisya
現住所 北海道十勝国

 好きな言葉は
『なんとかなるべさ』

 そう、生きてさえいれば
何とかなるもんです。。。
   


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年度末

バタバタ! ドタドタ!

スタコラセッセ!

やいのやいの! 何だかんだ!

ワイワイ! ガヤガヤ!

スタタタ・・・ドテッ!?


毎年の事ながら
年度末ってどうしてこうも忙しいんでしょ?

までも、考えたらそれも当たり前で
営業の会社なら今年度の数字の締めがあり
来年度の数字も作らなければならず
にも関わらず
よりによってこんな時に4月1日付の異動があったりして
やれ、引き継ぎだとか担当変更だとか
会社の中は
まるで盆と正月とクリスマスがいっぺんに来た感じ?

「盆と正月とクリスマスがいっぺんに来たら嬉しいべさ」
ですと?

それは子供だけでしょ

親の財布は軽くなる一方・・・って
話がもこみち・・・いや、横道ですね?

いずれにしても
サラリーマン的には一年で一番忙しい時期です


私がもしも孫悟空なら
髪の毛を数本抜いてフッと息を吹きかけて
何人もの私を総動員したいくらいだし

それが無理なら

せめて、ドラえもんのコピーロボットで
私の分身を作って仕事をさせたいわ

私の代わりに(笑)



年末の事は「師も走る」って言うけど

それじゃいったい

年度末って誰が走るんでしょうね?


年末よりも忙しいんだから
「師」よりも偉い人?

「師」より普段は落ち着いている人かな?


それって誰?


ん~ 少なくとも私では無いかな(笑)



ともあれ

年度末の締めまで今日も入れて後4日


忙しい人も
そうでない人も
それなりの人も

頑張って行きましょ!

そこさえ乗り切れば春、4月です


あなたの夢を見ました
懐かしい香りがしました

あなたの指の先
ちょっとだけ摘まんで握ると
照れくさそうにあなたは
少しだけ視線を外していました

可笑しいですね
夢の中のあなたは
昔とちっとも変わっていません

夢なのに昔なのに
あなたはやっぱりあなたでした



あなたが笑っていました
あの店も昔のままでした

あなたが口ずさんだ
歌だけどうしても思い出せません
悲しそうな私を見て
戸惑うあなたもあの日と同じでした

何年経っても
私の中のあなたは
昔とちっとも変わっていません

夢なのに昔なのに
あなたはやっぱりあなたでした



あなたの夢を見るなら
出会った頃の私のままで

時間の扉を開け
昨日と同じように当たり前に
あると思っていた明日を
あなたの腕の中で見ていたいのに

悲しいですね
変わってしまったのは
あなただけじゃないと気付きました

夢なのに昔なのに
私もやっぱり私でした


日常

何も特別な事もなくて
大きな事件が起きる訳でもない

小さな行き違いや
ささやかな意見の相違はあったにしても
それで何がどうなる訳でもない

何が良いとか悪いとか
お互いの事を
それなりに思ってはいるんだろうけど
でも、それを口に出すかどうかは別な話で
誰もが好き好んで
水面に石を投げたいとは思ってはいない


「人生なんてそんなものさ」

そう嘘ぶきながら
みんなドラマのような人生を期待はするけど
そんなドラマのような事は
本当は起こって欲しくはないんだよね



仕事の事は家には持ち込まないから
訳知り顔で機嫌を伺わないで良いよ

君の周りで今日
飛び交った噂話も来週にはきっと
もう誰も口にしないだろう


ここに空気がある事
それを吸って生きているなんて意識は
きっと誰も持っちゃいないよね

人はみんな無いものねだり
ましてや退屈なんかしたくない


「平凡なんてつまらないだけ」

そう嘘ぶきながら
みんなドラマのような人生を期待はするけど
そんなドラマのような事は
本当は起こって欲しくはないんだよね


僕もそう思っている

変わらない毎日と
変わらない君がいて
それで僕の世界は回っている

それが幸せなんだって言い切るには
少し嘘っぽい気もするけど
日常が今日も日常でいられる事には
そうだね、感謝しているよ







 <作者注>
この話はあくまでも創作であり
実在の家庭をモチーフにしているものではありません

でも、しいて言うならば
或る意味
作者の脳内に実在する理想かも知れませんが・・・


退化の会心

生まれたばかりの赤ちゃんは
日々とは言わず1分、1秒毎に成長をしていきます。

表情は豊かになり、
泣き声にさえ感情を感じるようになります。


歩き始めるようになると
その成長は飛躍的になっていきます。

出来る事は日々増えていき、
コミュニケーション能力も芽生えていきます。


赤ちゃんにとっての1年は或る種、劇的な成長の1年です。


一方、私くらいの年齢になると
10年経ってもその成長の度合いは
亀よりもカタツムリよりも遅々としたものになっています。

いやでも
カタツムリよりもノロいとしても
成長をしているならまだマシな方です。


いや、退化をしていくのも仕方のない事です。
それは判っていますし
それに購うつもりもありません。

私の人生のモットーは
『なるようになるべさ』ですしね。
つまりは<在るがまま>

白髪になったからと言って
髪を染めるつもりもありませんでしたし
例え、禿げたってカツラなんか被るつもりもありません。

ただ、この先恐いのは
自分の衰えに気が付けない事です。

昔出来た事をやってみもせずに
いつまでも出来ると盲信してしまう事です。


確かに
この先は出来る事が少しづつ減っていくのかもしれません。

でも
出来なくなった事を認められたら
それを補う事も少しは出来そうな気がしています。

体力が衰えたとしても
それによって気力まで衰えさせる事はありません。


『認める事』『受け入れる事』

出来る事をやって行けば良いってポジティブに考える。
或る意味、いや、誰がどう見たって明らかな<開き直り>?

いやでも、そうなんです。

人間、歳を重ねていくと
開き直る事も必要になっていくんです。


「何を言ってやがんでぇ。
 ひとつやふたつ出来なくなったって
 それが何だって言うんでぇ~がはは!」


出来なくなる事を恐れずに
会心の笑顔で笑い飛ばしましょう。

出来なくなった事なんてのは
今、この歳ではもう必要の無い事なんだと。

それを私は<退化の会心>と名付ける事にしました。


手を握ろう


『手の冷たい人は心が温かい』だとか

『いや、手の冷たい奴は心だって冷たいはずだ』とか

そうかと思えば

『手の温かい人はやっぱり心も温かいものだ』とか

或いは
天の邪鬼な輩ならきっとこう言うのかな?

『いや、必ずしもそうとばかりは言えない』


そんな言い方をする人がいるけど

何を根拠にそういう話しになっているのかは
実際、良く分からないところです

≪手の温度と心の温度≫

それは比例するのか? 反比例するのか?
その実際について興味はありますが因果関係は分かりません



でも、ひとつ確かなことは

手を握った時の手の温もりで伝わるものって
そう、確かにあるんだということ



例えば一緒に歩く時


もし
その先に不安な気持ちがあったとしても
握った手の温かさを感じたら
あなたは
安心をして先に進むことが出来るでしょう



指と指を絡ませて握る

指の先をちょっと摘むように握る

五本の指を合わせて
しっかりと相手の手を握る


二人の関係によって握り方も様々あるけど
伝わる気持ちは同じです



言葉は
相手に自分の気持ちを伝える為の
もっとも有効な手段です

でも
言葉が無くても手を握ることで
伝わる想いもきっとあるでしょう



親と子供

祖父母と孫

友達同士

恋人同士

夫婦 etc・・・


二人の関係や距離によって
多少の意味合いの違いはあったとしても

共通するものは相手への愛情です



だから

握った手が温かければ
あなたはそっと受け止めれば良いのです


もし

握った手が冷たければ
あなたの温もりで温めてあげれば良いのです



その想いはきっと伝わります






最近、あなたは誰かと手を握りましたか?


ネコヤナギ

そう言えば
いつもこの頃だったっけなぁ~


私が小さい頃。

春先になると母が何処からか
ネコヤナギの枝を切ってきて家で飾っていました。


花瓶に挿していると
ネコヤナギの白い綿ぼうしが少しづつ膨らんで・・・

それを触るのが好きだったっけ。


外は寒くても家の中では
少しだけ春の息吹きを感じられたものです。


春には菜の花を飾って
夏が過ぎた頃にはホオズキ。
そして、十五夜の頃にはススキを飾って。


田舎だったから出来た事かも知れませんが
季節それぞれの風情がいつも家の中にもありました。


考えたらどれも
家の周りにあるものばかりだったんですけどね。


でも今は
勝手に切って来ちゃダメなんだろうなぁ~


第一、菜の花やススキはともかく
ネコヤナギなんて
しばらく見て無いんだって事を思い出しました。


今は花屋さんで買うものなのかな?


庭の林檎の木の芽もまだ堅いけど
せめてそんな小さな風景を眺めながら
春が満喫出来る日を楽しみに待ちましょうか。


若い頃は失敗をするものです。

根拠のない自信は若さの特権でもあるし
頭で考えるより先に行動をするのが若さなら
そこに失敗は付き物です。


若い頃は色々な事に悩みます。

いくら本を読んで知識を貯め込んでも
いかんせん、実際の経験が少ないのですから
判断に迷って当たり前なのです。


若い頃の後悔はたかが知れています。

悔やまれる事が仮にたくさんあったとしても
それ以上に次から次へと新しい事が起きるから
後悔をする暇がないと言った方が正しいのかも知れません。



若い時って失敗をした時も
友達の手前
強がっては見せるけど
それが違う事は自分が一番解ってはいるのです。

でも素直に自分の失敗を認められない。

いや、それよりも
自分の弱いところを友達に見せたくないんです。

しょうもない事に意地を張って
張子の虎のように脆い虚勢で自分を守ろうとする。


今にして思えば
やっぱり若かったんでしょうね。

でも
怖いもの知らずなだけだったかも知れないけど
行動力だけはあったんだよね。

失敗はいつでも取り戻せると思っていた。

だから余計に他人に弱みを見せまいと
意地を張っていたんだと思う。

それも今考えると根拠のない自信だったんだけどね。



若い頃のそんな事を思い出しては
「若気の至りだったなぁー」
と苦笑いをします。

時には自嘲気味にわざとふざけて
「若気の行ったり来たり」
なんて言ったりもします。

どっちにするかあれこれ悩んだり
後悔をしたかと思うと
次の瞬間には
「いや、そうじゃない」
と、自分を弁護してみたり。
で又、次にはやっぱり後悔したりと
だんだん自分の気持ちが解らなくなります。

まさに<行ったり来たり>ですよね。



じゃあ、五十代も終盤の今はどうなんでしょうね。

あの頃の自分を<若気の至り>だなんて
笑い飛ばす事が出来る自分になっているんだろうか?


失敗を恐れ
悩む事から逃げようとし
後悔をする事にも怯えています。

考えてみると<大人>って便利な言葉だね。

慎重に行動が出来るのが大人なのだ。
客観的に冷静に判断できるのが大人なのだ。
バカな事はしないのが大人なのだ。

言い訳をもっともらしく正当化できます。

「大人はね」

何でも解った風な口で言えば
偉そうに聞こえるよね?

そう、口だけなら何とでも言える。



でも、それで良いのかな?
自分に問い掛けてみる。

「枯れる事を大人になるとは言わないだろ?」

残りの時間を気にしたりだとか
今の自分に拘ったりだとか
あの頃の俺が見てたら
きっと腹を抱えて笑ってる。

いや、情けない顔で俯いているかな?

もし泣いていたとしても
それは少なくとも同情の涙ではないだろう。


年相応の自分にはなりたいと思う。

色々な経験もしてきたし
今だから解る事もたくさんある。

でも、だからって
<大人>を振りかざす大人にはなりたくないよ。


3月とは

2月は逃げると言う。

確かに他の月からみたら2月は日数が少ない。

暦を考えた人も少しでも早く春になって欲しかったんだろう。
でなければ職業はきっとサラリーマンだ。

少ない勤務日数で給料は同じ。

サラリーマンが思う事はみな同じ。



3月は去ると言う。

年度末は何かと忙しい。

今年度の売り上げの総決算だ。
しかも、新年度の予算も作らなければならない。

転勤族にとっては転勤や異動の辞令が下りるのもこの時期。

精神的にも肉体的にも忙しくない訳がない。

従って、暦を考えた人もきっとサラリーマンだ。

でなければ3月生まれの申年。
忙しい時ほどくだらないダジャレを思いついたりするものだ。



「逃げた女房にゃ未練は無いが」

大昔、そんな演歌があったが
逃げた2月にも未練なんぞあろうはずが無い。

なぜなら今日からは3月だ。

「3月は去る? いや、3月は春だね」

そんな本州人を尻目に北国人は思う。

「3月はまだ春とは言えない。
 でも来月には春が来る。そう思えるだけで嬉しくなるよ」

春を待ち焦がれていた北国人にとっては2月と3月の違いは大きい。



「冬と夏の間に春を置きました。
 だから春は少しだけ中途半端なのです」

昔、そんなフォークソングがあった。

それはきっと正しいのだろう。

でも、この中途半端を何よりも待ち望んでいるのは北国人。

四季彩々のこの日本に於いても
北国人ほど四季のそこに喜怒哀楽を見つけられる人はいないだろう。

ただ、本州人からしたら季節も
本当は少しだけ遅くズレているかもしれない。

でも、そこが良い。

北国人は美味しいモノは後に取っておく。
我慢には慣れているしね。

だから「春よ、早く来い!」なんて野暮は言わない。

春を待つこの季節は悪くない。

サラリーマンにとって一番嬉しいのは休みの日ではない。
金曜日の仕事が終わったその夜なのだ。

そんな休みの前の夜にも似た月が3月。
心が浮かれない訳がない。

さぁ、春までもう少し。


退院後の体調も戻り
私の仕事も身体も通常営業に戻ったのですが・・・
いや、そのはずなんですけど何かね~
最近、夜、パソコンに向かうと
途端に妄想するより先に眠気に襲われるんですよね。

確かに仕事はここ何年かで見ても
比べものにならないくらいずっと忙しかったり
私にしては珍しいくらいに
精神的にストレスを感じる事も増えてはいるんですが。

仕事も身体も元に戻ったのに心の体調はまだ不良中?

でも、だからと言って
そんな事くらいで妄想が出来なくなっただなんて
それこそ
妄想族の名折れじゃあ~りませんか!

ねぇ~?

この私が妄想を出来なくなったら
それはもう、そんな奴は<私>ではありません。

ってか、私から妄想を取ったら何が残る?
いや、何も残らないでしょう!

おっと、これって自分で言う事だべか?

思わず自爆・・・いや、自虐?
或る意味、自縛?(笑)


ともあれ

私の心は
今や不健全になり下がってしまったのでしょうか?


思えば今月に入ってからその兆候はありました。

なので、厄払いの為に
今年の節分はいつになく力を入れました。

節分の恵方巻きも食べたし豆撒きもちゃんとしました。

「鬼は外~、福は内~」

ま、まぁ~

神様をおちょくった訳では無いけど
撒いたのはチョコだったから・・・

やっぱ、神様が怒っちゃった???

(決して<似た言葉三段ダジャレ>ではありません!)


実際、13日に入院をしてから今日に至るまで
そんなこんなあんな訳でして
しばらく妄想が出来ていません。

と、言うか出来ないんですよ。

美人の看護師さんを見ても・・・

それは重症・・・って、おいおい!(笑)

もとい!

私の唯一の取り柄であった
<健全な妄想>が出来なくなったなんて!
そこまで私の精神は自堕落になってしまったのでしょうか?


今ほど思い知らされる事はありません。

<健全な妄想は健全な肉体に宿る>

うん、昔の人は良い事を言ったものですね。


えっ?

何か違う?

そ、そうですか?


ん~~~~~

今の私には解りません。

まだ頭がちゃんと回転をしていないようです。


早く、<健全>な妄想が出来るように
自戒して心の体調管理に努める事にします。


時節柄、皆さんにおかれましても
ぜひ、ご自愛をお忘れなきよう・・・かしこ。


路傍の人

<路傍の人>とは
 ”道を歩く人、道端ですれ違う人”

そこから転じて

”自分とは無関係な人”と言う意味にも使われます



確かに

東京などの大都会に行くと
何処に行っても
何千、何万と言う人の群れとすれ違います


その街をたまたま訪れただけの異邦人にとっては
その全てが路傍の人と言う事になるのです



ネットを観ていても
数えきれない程のサイトやブログが存在し
多くのSNSが存在し
そこに出入りする無数の人達がいます

そのほとんどが

自分にとっては
やはり路傍の人と言う事になるのでしょう



ならば

そこにおける自分は
路傍に転がる
”ただの石ころ”
そんな存在に過ぎないのかも知れません

何も無ければ誰も気に留める事もないような
何処にでも在るただの石ころ



でも
路傍の石ころにだってつまづく事も有ります


その石ころに僅かに含まれる石英が
光に反射をした時

ふと
「何?」と手に取ってみる事も有ります



その瞬間

石ころにも縁が生まれます


ただの石ころだった自分が
人によって活かされる

そんな事だって生まれるかも知れません



その後

その石ころが
何処かにすぐ捨ててしまわれるのか
誰かのポケットにそっと大事にしまわれるのか

それは運命に
委ねるしかないのでは有りますが・・・



ならば
路傍の人とて全くの無関係とは言い切れません

そうであるならば
自分は
路傍に転がるただの石ころだと嘆く事もありません



神様のちょっとした気紛れにしろ悪戯にせよ
出会った事の偶然を
自分が一歩踏み出す事で
必然に変える事が出来るかも知れないのですから



キッカケを活かすも活かさないも自分次第です


つまり

関係、無関係とは
自分が作り出す所業に他ならないのです



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