Neko

夢の汽車に乗って
fc2ブログ

プロフィール

yumenokisya

Author:yumenokisya
現住所 北海道十勝国

 好きな言葉は
『なんとかなるべさ』

 そう、生きてさえいれば
何とかなるもんです。。。
   


カレンダー

02 | 2023/03 | 04
- - - 1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30 31 -

最近の記事


カテゴリー


最近のコメント


フォト・ポエム


クリックお願いします。


月別アーカイブ


来週はクリスマスですね

みなさんはどんなクリスマスを過ごしますか?


家族で、友人同士で、恋人と・・・

或いは、一人で?


余談ですが

私も一人で過ごすクリスマスって時代が長かったので
クリスマスを一人で過ごす寂しさは良~っく分ります

一人でケーキを買って食べたって美味しくないしね

と、言うより

一人の時は
ケーキなんか買った事はありませんでしたけど


ともあれ

色々な想いで過ごすクリスマスは
キリスト教徒ではない人達にとっても
やはり特別な夜なのでしょうね

特に
サンタさんからのプレゼントを心待ちにする
子供達にとっては
特別中の特別な日となるのでしょう



そんな特別な夜を前に
ちょっとクリスマスにまつわるネタを拾ってみました

(有名な話でもあるので
 ご存じの方も多いとは思いますが)


みなさんは
「NORAD」ってご存じですか?

「NORAD」とは、
ミサイル攻撃や空襲に備えて空を監視する
アメリカ合衆国とカナダの二カ国連合の軍事組織です

そんな国家防衛機関が驚くべき事に
毎年、クリスマスイブの夜が近づくと
世界中を旅するサンタクロースを追跡すると言う
夢に満ちたサービスを行っています


それは、一本の間違い電話から始まりました

1955年

ある新聞の「サンタ・ホットライン」に
あるお店が

「特別なホットラインでサンタさんとお話が出来る」

と、宣伝をし
広告に間違った電話番号を載せてしまったのだそうです


この間違い電話の先が
「NORAD」の前身である中央防衛空軍基地でした

「サンタクロースは本当にいるの?」

「サンタクロースは今どこにいるの?」

そんな子供達からの間違い電話に答えて
司令官(当時)のハリー・シャウブ大佐が
機転を利かせて

「サンタクロースは北極点から南に向かったらしい」

と、答え

以後、毎年サンタクロースの追跡が行われるようになり
これを1958年に設立された「NORAD」も
引き継いだのだと言う事です


子供達の問いにも

”最新鋭のレーダーを使い
 トナカイ・ルドルフの鼻から放出される熱を感知し
 サンタクロースの居場所を追跡しています”

と、説明していたとか

子供達の夢を壊さない為のちょっとした”嘘”でした


そんな心温まる出来事があってから
毎年12月、「NORAD」で働くボランティアが
子供達の電話に答えてきました

今ではウェブサイトに
世界中の人々がサンタクロースの
最新情報を得ようとそこを訪れているのです


更に、このウェブサイト上の世界地図では
ソリに乗ったサンタクロースが今どこにいるのか
また、世界各地への到着推定時間などが表示され
その情報は一晩中更新され提供されているそうです

(残念ながら24日にならないと見れません)


防空の為の最新鋭の設備を備えた国家機関が
このようなサービスをしていると言うのは
何かホッとさせてくれます


もうひとつ
アメリカでの話ですが
ユタ州のソルトレイクシティー市航空局には
「市の空を飛ぶ小型機の最低高度」
を定めた条例があります

この条例は
小型機の最低高度を連邦航空局の規則に基づいて
2000フィート(600m)と定め
続く条項に

「クリスマスイブにトナカイの引く荷物だけは例外とする」

と明文化していて
ソリに乗り空から家々にプレゼントを届ける
サンタクロースへの
配慮として1985年に盛り込まれたと言う事です

しかし、市ではこう言う項目があると
いい加減な条例だと受け止められる恐れがある為
航空局の委員会で
この条文を削除する修正案を可決して
議会に送ったのだそうですが
多くの反対派市民の運動によって
この条例は今でも残っているそうです


一方で

世界中にはクリスマスを祝えない子供達も大勢います

サンタクロースからのプレゼントを待つどころか
今日をどう生きるかで精いっぱいだったり
いや
今、こうしている間にも
死んでいっている子供達も大勢いるでしょう

戦争、内戦、テロ そして、大災害や飢餓

親兄弟を亡くし
そして、自分も傷ついて
明日に希望が持てない子供達も大勢いるのです


それは
今や日本だって他人事ではありません

このコロナ禍にあって
職をなくしてしまったり
大切な家族を失ったり
或いは
毎年のように繰り返される大きな自然災害によって
住む場所を失い、中には家族をも失い
プレゼントを
買ってあげたくても買ってあげられない
買って欲しくても買ってもらえない

そんな親や子供達が沢山いることでしょう


子供達にとって
サンタクロースはまさに夢ですよね?

そんな子供達の夢を
大人が取り上げるなんて事は
本来、絶対有ってはならない事です


いつか、子供達も大人になれば

現実の厳しさに
立ち向かわなければならない時が来ます

そんな時に心の支えになる事の大きなひとつが
幼い頃の夢かも知れません

その夢を子供達に与えてあげる事こそが
大人達がやらなければならない事なのでしょう


上記で紹介した記事はホンの一例ですが

世界中の大人達が
こんな風に子供達の夢の為に
知恵を絞り、時にユーモアで応えられたら
世界は変わっていけるのかも知れません


最後に

「新聞に掲載されたある手紙」と言う記事より

1897年9月
ニューヨークに住む少女
ヴァージニア・オハンロンという少女が
学校でお友達と
「サンタクロースはいるのか、いないのか」について
口論になりました

彼女はもちろん「いる」派でした

でも、家に帰って父親に
「本当にサンタクロースはいるの?」
と質問したところ
なんとその父親は
「新聞に手紙を書いて聞いたみたら?」
と言ったというのです

そしてこの投書を受け取ったサン紙の記者
フランシス・チャーチはその投書への回答として

「この世には、愛や思いやりといった
 目に見えないけれども確かに存在するものがある
 それと同じように
 もし、目に見えない存在だとしても
 サンタクロースだって確かに存在する」

という内容の社説を発表しました

そしてその後
サン紙は、毎年クリスマスが近づくとこの社説を掲載
この話は、その後本にもなりました


サンタクロースを信じる心を育てる事は

善い事をした時も
悪い事をした時も

「いつでも誰かがあなたを見守っている」

という心を育てる事になるのかも知れません

この記事を紹介していた人は
このように結んでいました


子供達の夢

それは私達大人にとっての夢でもあるのです


そんな十二月

十二月も十日が過ぎましたが
この時期は本州や九州、四国なんかでは
まだまだ晩秋と初冬が交差する季節でしょうか?

テレビのニュースを観ていても
北海道北部や日本海側では何十cmの積雪があった
なんて映像が映っている一方で
次の場面では紅葉が真っ盛りの映像だったり

世界の中では小さな島国の日本ではありますが
こういうのを見ていると
けっこう日本は広い・・・いや
実際には縦に長いんだって分かりますね


私の住む十勝はと言うと
元々が雪が少なく
その分、底冷えの厳しい土地柄です

先日、サラッと(少しだけ)雪が降りましたが
降った雪の量の割には
その後のシバレで解けきらずにいて
「やっぱ冬なんだ」
「やっぱ北海道なんだよな」
なんて思っています

道路に関しては街中の日陰部分以外は
ほとんど乾燥路面なので
通勤とか仕事とかには影響は無いんですけどね


それでもまだ
最低気温が氷点下でも
未だ一日を通しての真冬日は少ないので
北風とか西風が強くさえなければ
「過ごしやすい」とまで
冬将軍に挑戦状を叩き付けるような真似はしてませんが

はい、素直に
「ありがたや~ありがたや~」
なんてね


例え、何日かにいっぺんでも
プラスの気温で
昼間の天気が良く穏やかなのはありがたいです

昨年の今頃を考えると
「今年は暖かいのかな?」
とも思ってしまいます

でも

ひとたび冬将軍が本気を出せば
そんな甘い考えなどは
簡単に吹き飛んでしまうんですけどね


「あぁ、間違って冬将軍が冬眠してくれたらなぁ~」

これ、私はマジに願っています。
毎年、毎冬

もちろん、それが叶ったことは・・・はい



今年も街にはイルミネーションが灯りました

ここ二~三年はコロナの影響で
みんな自粛、自粛で色々なことを我慢していましたが
ここに来て最近は
街を歩けば歳末の売り出し
そしてクリスマス商戦も最中で人出も増えてきています

「今年は三年ぶりに忘年会だ」
なんて声も聞えてきます

一年のうちでも一番の喧騒が戻って来つつあるようです

しかし

一歩、その喧騒を離れると
ただひたすら真冬に向かっている季節に出会います

否が応でも
冬将軍がご丁寧に念を押すのです

「なんせ冬だからな。
 俺もちゃんと仕事をしなくっちゃな」

いやいや、そこは
そんなに律儀にならなくても良いんですけどね



頬に当たる風の冷たさに
思わずコートの襟を両の手で立てて
白いため息をひとつつく

それで何が変わる訳でもないと言う事は
十分過ぎるくらいに分かってはいるけれど・・・


そんな十二月
今年も残り約半月です


運命論とやら

”運命は変えられる”

そう言う人がいる。


”運命は変えられない”

そう言う人もいる。


いったいどちらが本当なんだろう?

変えられるのか?
変えられないのか?



”運命を避けようと選んだ道で
 人はしばしば運命と出会う”

そう言った人がいる。


人生で幾つも訪れる分岐点。

そこでする選択や
例え、そこで選択をせずに流れに任せたとして
そこから今に至る道程を
もしも運命だと言うのなら
運命とはただの途中経過に過ぎない事になる。


今までに幾つもしてきた選択。

それを運命だとするなら
その結果が判る時はいつだろう?

おそらくは死ぬ時だとなるのだろうが
そうすると
運命という言葉には意味など何も無いという事になる。

何故なら
人間は誰しも最期の瞬間を知らずして死んでいくのだから。


そうだとするなら
運命とは果たして何なんだろう?

人間にとって
それがただの選択や、その結果に過ぎないのだとしたら
運命とは自分へ後付けの言い訳に過ぎない事になる。


「これが運命だったんだ」

そう、だから良くも悪くも仕方が無い・・・なんてね。


それなら、いっそこう思った方が良い。

「なるようにしかならないのが人生さ」


11月22日は『いい夫婦の日』なんだそうです。

「昔はそんな日は無かったよなぁ~?
 じゃ、いったいいつから???」

なんて思ったので調べてみました。



1985年
政府が経済対策会議で11月を「ゆとりの創造月間」として提唱

1988年
・財団法人余暇開発センター〈現(財)日本生産性本部〉が
 夫婦で余暇を楽しむゆとりあるライフスタイルを提案
・11月22日を「いい夫婦の日」と提唱

1998年
「いい夫婦の日」をすすめる会 事務局 設立



へぇ~ 思ったより古くから<存在>していたんですね。
なるほど。



1999年
第1回「パートナー・オブ・ザ・イヤー」選出

2006年
第1回「いい夫婦 川柳コンテスト」選出

2007年
第1回「夫婦に関するアンケート」実施

2009年
「いい夫婦の日」新キャンペーンテーマ
 “いい夫婦の日には「ありがとう」と「愛してる」を
  バラに込めて贈りましょう”を提唱



ま、まぁ~ この辺までは何となく判りますね。

バラなんて高価な花を贈ろうなんてのは
男にとっては余計なお世話な気もしますが。

だってね、世の中の全ての女性が
バラを好きだとは限らないじゃないですか?

ねぇ~?
野菊とかタンポポが好きな女性だっていますよね?

で?



2011年
東日本大震災の影響で
結婚式を中止したカップル3組に結婚式をプレゼント



へぇ~ そんな事もあったんですね。

で?



2013年
11月11日「ジュエリーデー」
11月22日「いい夫婦の日」から
クリスマスとつづく贈り物シーズンに向けて・・・云々



『ジュエリーデー』?
『贈り物シーズン』???

はぁ?
何ですか、それは???????

これは完全にアレでしょ?

<業界>の世論誘導ってやつ!

『バレンタインデー』だけだと思ってたら
いつの間にか『ホワイトデー』が出来て
菓子業界やら宝飾業界が猛然とアピールし出し
それに負けじと出版・本屋業界も乗じて
『サンジョルディの日』が出て来たり
気が付けば毎年10月末には
『ハロウィーン』が日本を乗っ取り・・・

ん?

『ハロウィーン』は何業界?
仮装業界? メイク業界? SFX業界?

あっ、カボチャ業界?

って、そんなのは無いか?

ともあれ!

『いい夫婦の日』なんてのは
花屋業界やら宝飾業界の陰謀でしょ?

夫婦なんてね。
<形>じゃないんですよ。

気持ちです、気持ち!

でしょ?

女性だってね。
宝石なんて名の石ころが付いたリングよりも
オニオンリングが好きだとかね。
花より団子だって女性が・・・ねぇ?



と、ともあれ
問題は何故『いい夫婦の日』が
11月22日に設定されたのか?

ここですね。

語呂が合ったから?

ノンノン!

ポイントは何故『良い夫婦の日』ではなくて
『いい夫婦の日』となっているのか?

これこそがまさに陰謀なんです。

『良い夫婦の日』なら4月22日でも良いですよね?

じゃ、何故11月22日なのか?

それは11月23日が『勤労感謝の日』だからです。


『勤労感謝の日』を紐解くとそもそもは・・・



勤労感謝の日は、「勤労を尊び、生産を祝い
国民互いに感謝しあう」という精神のもと
1948年に制定されています

もともとの起源は戦前の新嘗祭(にいなめさい)であり
稲の収穫を感謝する儀礼であったとされています

呼称はアメリカの感謝祭
 ” Thanksgiving Day”にならったものと言われる



ですが。
世間一般の家庭ではこれを上手いように変えられていますよね?

「今日は勤労感謝の日なんだから
 いつも頑張って働いてくれているお父さんに感謝をしなさい」

とか、子供の頃に言われませんでしたか?

もしくは
今も子供にそう言ってませんか?

そもそも
『勤労感謝の日』にお父さんに感謝なんて意味は無いんです。

これは謝罪会見等で良く遣われる言葉
『遺憾』に<反省>の意味が無いのと同じようなものです。

何となくそれっぽいみたいなね。

が、しかし。

「いつも頑張って働いてくれているお父さんに感謝をしなさい」

その意味は ↓

「お父さんにお金なんか使う必要はないよ。
 感謝してるフリさえしてりゃ頑張って働いてくれるんだから」

似てませんか? ↓

「豚もおだてりゃ木に登る」


良いですか?
「いい夫婦の日」とは言え
贈り物をするのはどっちですか?

例えばクリスマスに手ぶらで帰ったら
思いっきり冷たい視線を浴びるのはどっちですか?

例えばバレンタインに500円のチョコを貰ったからって
ホワイトデーに500円のクッキーを返したら
思いっきり冷たい態度で無視されるのはどっちですか?

例えば誕生日に断崖絶壁から飛び込む覚悟で
なけなしの小遣い3ヶ月分を割いてプレゼントをしたのに
「この指輪ってダイヤが付いてないんだね?」
って、一言で済まされ
挙げ句、自分の誕生日には
「今夜は発泡酒じゃ無くてビールだよ」
って、さも恩着せがましく
350ml缶1本を差し出されて
それであいこにされているのはどっちですか?

例えば・・・いや、もう止めておこう。

なんか虚しくなってきた・・・


ともあれ!


もう賢明な皆様なら答えはお解りですよね?

世の中の宝飾業界、お菓子業界、花屋業界etc
あ~んど
家人までもがグルになって
世の中のお父さん族を落としめようとしているんです。

これを陰謀と言わずして何と言うのでしょうか!

その総括が『いい夫婦の日』であり
その日を『勤労感謝の日』の前に置く事で
「いい夫婦の日にプレゼントをくれなきゃ
 明日は感謝してあ~げない」
と、プレッシャーをかけているのです。

哀れなお父さん族は
明日の『勤労感謝の日』に微かな期待を託しながら
軽くなった財布を懐にしまい込み
心で泣いて笑顔を無理矢理作ってプレゼントをしてしまうのです。

あー、日本のお父さんってなんていじらしい。

なんて、健気・・・





あっ、

・・・って、誰かが言ってましたよ。



いよいよ十一月もそろそろ半ばに差し掛かっています


一年をひとつの物語に例えるなら

さしずめ
十一月と言うのは
一年という物語の大団円に向けて
これから事態は急展開を迎える頃・・・

そう、例えば

二時間物のサスペンスドラマだと
海に臨む断崖絶壁で刑事と犯人が最後の対峙をする頃

と、そんなところとなるのでしょうが

北海道人にとっての十一月は
冬への急展開を怖れて
出来るなら変な刺激はせずに
なるべくそっとしておきたい時期でもあります



霜月という名が表すように
この頃から
だんだんと朝晩の冷え込みが厳しくなります

やがて
氷点下の朝も珍しくなくなってくると
路上の乾いた枯れ葉を
シベリア下ろしの北風が押しのけて
風花のベールを身に纏った
冬将軍の軍団が今年もやって来るでしょう

ホント

毎年、毎年、冬将軍ご一行様は律儀なんだよね

決まってこの時期になるとやって来るんだから
誰も頼んじゃいないのにね



春には春の綱引きがあるように
秋には秋の綱引きがあります

秋が勝ったかと思えば
次は冬が負けじと秋を打ち負かします

再び秋が意地を見せて
押し寄せてくる冬を押し戻します

一進一退の攻防を幾度か繰り返して
季節は移ろっていきます

確実に冬へと



毎年のように同じ事を書いている気もしますが

(多分、あなたの気のせいです・・・?)

冬への覚悟を決める頃
いや、冬への覚悟を決めなきゃいけない頃

それが北海道人にとっての十一月でもあります

「冬来りなば春遠からじ」

冬が来なければ春も来ません

冬の厳しさがあるからこそ
春があんなにも愛おしいのです

えっ?

今から来年のことを言うと鬼が笑いますか?

良いじゃないですか

あの厳つい鬼が笑うなんて愉快です



厳しいシバレの中では
寒さに自然と肩を窄めるようになり
歩く足にも無用な力が入ってしまいます

必然と
話すことさえも億劫になったりします

口を開けると
ここぞとばかりに冷たい空気が入り込むしね

そんな中だと
笑い飛ばせはしないかも知れませんが
鬼にあやかって一緒に笑いましょう

そしたら少しは温かくなるでしょう、きっと



冬将軍に対抗出来るのは
案外と鬼なのかも知れません

優しい鬼なら頼めば金棒を振り回して
冬将軍を追っ払ってくれる・・・かも?



まぁ、それはともかく

どうせ開いてしまう冬の扉なら
潔く、思いっきりこっちから明け放ちましょうか

潔く・・・

潔く?


ん~

やっぱり、冬への覚悟を決めるのは
来月になってからにしようかなぁ~

したいなぁ~

そうしたいなぁ~


出来るなら・・・ね


そして、冬

昔、愛する人と一緒だった頃は
この季節は大好きでした

どんなに空気がシバレていても
いや、シバレていればいる程
握り合った手は温かでした



独りぼっちでいた頃は
この季節は大嫌いでした

どんなに厚手のコートを着ても
毛糸の手袋を穿いても
ポケットの中の手は冷たいままでした



結婚をして子供が出来てからは又
この季節が好きになりました

降る雪を見て「わぁ、キレイ!」って喜ぶ顔
例え、その後で何かをねだられたとしても
そんな事にも幸せを感じていました



この季節は誰かの笑顔と一緒にいたい季節です

そうじゃなきゃ凍えてしまいます



誰かと歩いた街
誰かと観た風景
誰かと過ごした時間

いつかそれが
想い出になってしまったとしても

想い出があるだけで
心は仄かに温まります

その仄かさが
何より暖かく感じるのもこの季節です



否定と肯定

相手の言葉に対して
何でも否定から返す人と
肯定から返す人っているよね?


「でも」

「そうだね」


その後に続く言葉が同じだとして
どっちが相手に受け入れられるかな?

答えはそう、みんな判っているよね。





相手の言葉に対して
何でも否定から返す人は
会話なんて望んではいないのかもしれない。


「違うよ」

「馬鹿じゃない」


否定は否定しか生まないどころか
会話をそこで断ち切ってしまう力がある。

それで良いの? 判ってるはずなのにね。


断ち切ってしまうのは
会話だけではないかもしれないんだよ。






相手の言葉に対して
何でも肯定をすべきだとは思ってない。
違うと思う事はちゃんと違うと言って良いんだ。


「判るよ」

「そこだよね」


いったん肯定をする事で会話は続く。
そうしたら次の問題点も見えてくるんだ。


相手の言葉を聞く耳だけは持っていたいよね。


まぁまぁ

「玉虫色」なんて言葉がありますが
敢えて物事をハッキリさせないのが
古来、日本人的な美徳なんだそうです。

考え方が欧米化されてきた現代に於いては
その評価は昔とは随分と変わってきてもいるんでしょうけどね。



同じような言葉に「まぁまぁ」というのがあります。


他人からの問いに対して私も良く遣ったりします。

「調子はどう?」「景気はどう?」

そう訊かれた時の模範解答みたいなものでしょうか。


今の仕事に対する問いであれば
仮に、本当に儲かっているとしても

「いやぁ~仕事はバッチリ順調だし儲かってしょうがないよ」

と、答えるのは何だかいやらしいし
何より相手に傲慢な感じを与えてしまいます。


逆に調子が悪い時に

「いやぁ~最近は全然ダメなんだよね」

なんて答えると
それが本当なら尚更
相手に余計な心配をかけることにもなってしまいそうで
それを良しとは出来ません。

仕事だけじゃなくて体調面への心配での問いなら尚更です。


それに、心の何処かで
相手に弱い面を見せたくないという気持ちもあったりします。

男の見栄でしょうかね?

かもしれません。



良くも悪くも答えは「まぁまぁ」

つまり、曖昧にするのは或る種の相手への思いやり?



一方でこんな「まぁまぁ」もあります。

怒っている人に対して宥める時の「まぁまぁ」


怒っている人の気持ちも分かるし
その相手方の言い分も判る時なんかそうですね。

なので、宥めてはいるんだけど
決して、どっちが良いとか悪いとかその辺はハッキリさせません。

「言いたいことがあるなら
 ハッキリ言わなきゃ相手だって判らないよ」

まぁ、確かにその通りなんですけどね。


でも、何でも白黒をハッキリ付けなきゃダメですか?
立てずに済む角なら立てずにおきましょうよ。

間に入る人間は何とか円く収めようとします。

そんな役目の人もいますよね。



相手の問いに対して
「まぁまぁ」と答えている自分を思い起こします。

きっと一割か二割は確かにその通りなんでしょう。

しかし、そのほとんどは
実は自分自身に対して答えているような気がします。

良い時には敢えて自分自身が調子に乗りすぎないように。
悪い時なら「決して悪くはないんだ」と自分に言い聞かせるように。

上り詰めたら後は落ちるだけとか
底まで落ちたら後は上がるだけだよとかって
自分を戒めたり自分を慰めたりとかね。


良いも悪いもほどほどが良い。
だから何でも「まぁまぁ」ってことにして取り繕う。

それが大人の模範解答?

もちろん、そのことに対する賛否は多々あるでしょうが
そこはね「まぁまぁ」ってことで、ひとつ。


秋の理由

「秋の理由?
 そんなものはないさ。
 ただ、夏が終わったから秋になっただけだろ?」

そうかな?

「そうさ。それが季節。つまり自然の摂理ってやつさ」

じゃあ、どうして秋はあるんだ?
夏の次は秋って誰が決めたと思う?

「さぁな。なんだよ?
 神様だって言わせたいのかい?」

いや、そんなつもりはないよ。
第一、なんでも神様にしたら話は続かないじゃん?

「そりゃそうだ。
 じゃ、なんでだ?」

クロソイド曲線みたいなものなんじゃない?

「なんだそれ?」

いわゆる緩和曲線ってやつでさ。
道路の設計なんかで良く使われるんだけどね。
直線と円弧を直接接続させると
直線からカーブに入る時に曲率半径の不連続性から
急なハンドル操作とかをしなくちゃならなくなって
運転しづらいから接続部分に緩和曲線を当てて
スムーズにカーブに曲がれるようにするんだよ。
その緩和曲線がクロソイド曲線なんだけど
つまり秋も緩和季節ってやつなんだろうなってね。

「なるほど。
 難しいことはともかく。
 ようは暑い夏からいきなり冬になると
 人間の身体がもたないから
 間に秋を入ることで少しづつ身体を慣らしていける。
 そういうことだろ?」

そう。
春も秋もその意味では夏や冬以上に
人間にとっては重要な季節ってわけ。

「だけどさ。
 それだけの為に秋があるんだとしたら秋は可哀想だな」

可哀想? どうして?
重要な役目を果たしているんじゃない?

「確かに、お前の言う通りなんだと思うよ。
 それが人間の為なのか
 はたまた、自然界全体を守る為なのか?
 それは判らないけどね」

うん。

「でも、本当にそれだけなのかな?」

と、言うと?

「秋のイメージってなんだい?」

ん~ 物憂げな季節?
誰もが感傷的になる季節?
秋の夕暮れとか夜が長いこととかさ。
日が暮れるのが早くなると
『あー、もう一日が終わるんだな』とか
何か寂しい気持ちになるし
夜が長いと何でか余計なことを考えすぎたりとかね。
良く、秋は誰もが詩人になるなんて言うけど
それは判る気がするよね。

「そうだな。
 でも、それは秋だからかな?」

そうなんじゃないの?
何だい?
秋に理由は無いって言ったのは君だぜ。
夏が終わったから秋が来た。
それが自然の摂理なんだろ?

「そう、自然の摂理さ。
 じゃ、自然の摂理って何だい?」

それは、つまり・・・
自然界を支配している法則?
自然に派生される万物に適用される法則?
宗教的な概念で言うなら
『すべては神の配慮によって起こっている』
なんか、そんなのを昔、何かで読んだよ。

「じゃ、やっぱり秋も神の配慮によって
 夏と冬の間に置かれているのかな?」

いや、それこそ味気ない結論じゃないか?

「そうだね。俺もそう思うよ」

じゃ、何て言えば良いんだい?

「だから、秋に理由なんか無いんだよ。
 理由を付けているのは人間だけさ。
 いや、秋を楽しんでいると言った方が良いかな」

何だか、判ったような判らんような感じだね。

「例えばさ、広い世界の中にゃ
 常夏の国なんてのもあるだろ?
 もし、冬が無い国の人に
 『秋はどうですか?』って訊いたって
 『???』ってなもんだと思うよ。
 多少の気温の上がり下がりはあるにしても
 そもそも季節って概念があるかどうか判らないよ」

まぁ、そうかもしれないね。

「ところが我々には季節がある。
 だからこそ、言ってみればね
 季節それぞれに理由を付けて楽しむことも出来るんだ。
 特に冬なんかは
 何か理由でも付けないとやってらんないしね」

でも、それが理由だなんて、そんなんで良いのかい?

「そんなもんだよ、真実なんてさ。
 何をどうしたって夏が終わったら秋が来るんだ。
 しかも、秋の後に控えているのは厳しい冬だ。
 なら、夏に火照った頭を冷やして
 深呼吸じゃないけど、ちょっと落ち着いてみるのさ。
 落ち着いて周りを見渡したら
 夏とは又違った風景だって見えてくるだろうし。
 振り返ったり立ち止まったりしてさ。
 そんな風にして時を楽しむんだよ。
 秋のおかげで束の間かもしれないけど
 冬までの時間稼ぎだってできるだろ?」

つまり時間稼ぎに理由はいらないと?

「そう。理由はいらないけど
 秋を楽しむためにあえてそこに理由を付けるのさ。
 詩人になったり芸術家になったり
 物思いに耽ったり、小説を読んだり歌を聴いたりね。
 普段と違う自分を装ってさ。
 でも、それってテレくさいだろ?
 で、『秋だから』って
 秋のせいにしてテレ隠しをするのさ」

テレ? それは君だけだろ?

「あはは、そうかもしれないね。
 でも、たまには
 そんな自分に酔ってみるのも良いんじゃない?
 秋なんだから。
 おや? 何だい? もしかして呆れてる?」

呆れてるって・・・秋だけにってかい?
いやでもそれさ、オチにしない方が良いと思うよ。
寒くって早く冬になっちゃいそうだから。


10月は私にとっては誕生月でもあります。

ただ、この歳になると嬉しいのかどうなのか
本人的には微妙な感じもしていまして。

嬉しいというよりは・・・そうね。

「誕生日は冥土の旅の一里塚」

って感じの方がね(笑)

 (注)ホントにある言葉は
   「門松は冥土の旅の一里塚
    めでたくもありめでたくもなし」


まぁ~それはともかく。

小さい頃は誕生日と言えば
親が祝ってくれまして
プレゼントだとか滅多に並ばない食事だとか
それはもう楽しみでしたし嬉しかったものです。

「誕生日は祝ってもらうもの」

そんな風にも思い込んでいました。

でも、いつの頃からでしょうか。

「ホントは誕生日って親に感謝をする日なのかな」

なんて思うようにもなりました。


それは多分、自分が親になってからかも知れません。

親は子供を育てるもの。

それは当たり前と言えばそうなのですが
でも、親も実は子供によって親として育ててもらっている。

子供だって親がいないと産まれては来られません。

「親は無くても子は育つ」

とは言うものの
親が産んでくれないことには
そもそも子供は存在しないのです。


一般的な話で恐縮ですが
親と子供、子供と親というのは
その絆や縁を脈々と歴史の中で繋いで
そして今の《私》が存在をしていることになります。

なので、親からすると

「生まれて来てくれてありがとう」

と祝い

子供からすると

「産んでくれてありがとう」

と感謝をする。


しかしながら
親不孝者だった私は面と向かって親に感謝の言葉も
ろくに伝えられないまま親を見送ってしまいました。

なので今年もまたその日が来たら
心の中で、そっと手を合わせようかと思っています。

(世の中には色々な事情があったり
 様々な形があるので
 ここでは、あくまでも一般的なという
 形容詞で話を進めました)


10月、頃は秋。

秋は実りの秋、収穫の秋と言いますが
多分、人生の中に於いて
私の年齢だとまさに秋の頃合いでしょうか。

いや、もしかしたら既に・・・晩秋???

果たして私の人生で実ったモノって?
収穫出来たモノって?

ん~ ん~  ん~

まぁ、ここは余り深追いをしないでおいた方が
精神衛生上良い・・・でしょうかね?(笑)


ともあれ

私の人生が後どれくらいかは
残念ながら<神のみぞ知る>というところですが
この秋を長くするのも短くするのも
有意義に過ごすのも無為に過ごすのも
きっと私自身の責任なんでしょう。

不摂生な私が親の歳まで生きられるかは
自分自身でもはなはだ自信は無いところではありますが
限りある時間を
せめて少しでも自分にとって有意義には出来るはずですね。

人生の曲がり角を何度か曲がってこの10月を迎え
そして、これから幾つの曲がり角を巡って
その先に何があるのか?

私みたいな妄想人じゃなくたって
色々と想像をしてしまうでしょうが
自他共に認める?妄想人たる私なら尚更です。

そして私には明るい未来しか見えていません。

どんなですって?

それは・・・秘密です(笑)



Powered by FC2 Blog