Neko

夢の汽車に乗って 2023年02月
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yumenokisya

Author:yumenokisya
現住所 北海道十勝国

 好きな言葉は
『なんとかなるべさ』

 そう、生きてさえいれば
何とかなるもんです。。。
   


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坂道 ~人生と~

坂道は洋の東西を問わず
昔から色々な小説や映画などの舞台として
人生の
或いは生き方そのものの象徴として
数多く描かれてきました


私の好きな映画監督である大林宣彦の映画
尾道三部作と呼ばれる
「転校生」「時をかける少女」「さびしんぼう」や
小樽が舞台の「はるか、ノスタルジー」は
そこに映し出される坂道が印象的でした



歌においてもそれはしかりで
坂道は人生
つまり生きてきた道
或いは
これから歩むべき道としても歌われてきました

「坂」そのものがタイトルに使われたり
歌詞の中で
何かに比喩されて歌われているものも多いですね


さだまさしが
”母がまだ若い頃、僕の手をひいて
 この坂を上るたびいつも溜め息をついた”
と歌った『無縁坂』

ゴスペラーズが
”この坂を上ったら
 二人どんな景色が見えるだろう”
と歌った『陽のあたる坂道』

”今日も坂は誰かの痛みで紅く染まっている”
そんなフレーズが印象的だった
中島みゆきの『あぶな坂』


タイトルに坂はついてはいないけど
好きな歌でこんなのもありました

『白いページの中に』柴田まゆみ

”振り向けばやすらぎがあって
 見守る瞳があったことを
 サヨナラの中でやっと気づくなんて
 長い長い坂道を 今登ってゆく”



坂道を上り、坂道を下る

そこに現実の生活があれば
感慨に耽るというよりは
それは苦労以外の何物でもないかも知れません

行く道にせよ、帰る道にせよ
上れば必ず下らなければならない
下れば必ず上らなければならないのですから

特に雪国の冬の坂道は厳しいです


しかし
旅人にしてみれば
坂道は来た道であり
これから向かう道です

その坂道の先で
旅人は
何を見ることになるのでしょうか?



今、私の暮らす街は
十勝平野の真ん中辺りにあります

生まれた街は山間の小さな村でしたが
坂道はそれほど多い訳ではありませんでした

私が青春期を過ごした旭川は
川の街と呼ばれていました

なので
坂道のある風景には
昔から一種の憧れみたいなものがありました



坂道も車で走ると
それはただ
過ぎていく一瞬の風景の内の一部でしかありません

しかし
自分の足で歩いてみた時
初めてそこに
人が古より積み重ねた足跡を感じられる気がします

「誰がどんな想いでこの坂道を歩いたのだろう?」

そんな風に想いを馳せて
坂道を歩いてみるのも良いだろうな

歩き疲れたら途中で休むのも良い

腰をおろした坂道の途中
振り返ったら
眼下に海なんか見えたらそれだけで良い

そう、坂道と港町って
何だかそれだけで絵になります

海の無い町でずっと過ごしてきた私にとっては
それは憧れに等しい風景です


いつかゆっくりと坂の街を巡ってみたい思う


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幸せとは

時間という現実は残酷ですよね。

「何が?」といって
多分、多くのみなさんが挙げるのは
<時間は決して戻らない>と、いうことでしょう。

人生は幾つになってもやり直しが出来るとはいうけど
過去に戻ってやり直しが出来る訳ではありません。

気が付いた<その瞬間>から
確かにやり直すことは出来ますが
それは、そこからの修正にすぎなくて
過ぎた時間が戻ることはやはりありません。



時間が経つと人間は誰しも老いていきます。

老いは
人間からひとつ、ひとつと出来る事を奪っていきます。

時には人間から考える力さえも奪ってしまいます。

もちろん
どんなに健脚を誇った体力だろうと
どんな美貌でさえも<時間>の前では無力です。

そこに例外はありません。

昔から世界の各地に不死鳥伝説がありましたが
時の権力者達がこぞって
不老不死を追い求めた気持ちも
歳を重ねてきた今なら少しは解るような気がします。



ただ、それが本当の幸せなのかは判りません。

もし、自分一人だけが不老不死を手に入れられたら?

幸せだと喜べるのは
おそらくは最初の数年間だけでしょう。

いや、最初の数ヶ月、
もしかしたらただの数週間だけかもしれません。

その後に待っているのは恐ろしいまでの孤独かもしれません。

愛する人が出来る度に
その愛する人の死をただ見ているしか出来ないとしたら?

それを何度も繰り返さなければならないとしたら?

それが何百年も何千年も続いたとしたら?

きっと、耐えられませんよね。



そう色々なことを考えていくと
時間が過ぎて行くのは決して残酷なことではない。

そう思えてきたりもします。

望まない瞬間で時間が止まったままだったり
或いは、
進んでは戻ってはを悪戯に繰り返すことの方が残酷です。

それじゃ、上手い具合に
幸せな瞬間で時間が止まったり
幸せな時間だけを繰り返してくれるなら?

でも、それもやはり幸せとは呼べないでしょう。

人間にもし、<慣れ>という感覚がなければ
永遠の幸せと呼べるのかもしれませんが
残念ながら人間はそういう風には作られてはいないのです。

幸せな時間はやがて
ただ褪せていくのを待つようになっていくでしょう。


浦島太郎の玉手箱の教訓は

乙姫の言いつけを守らなかったことへの戒めなんでしょうか?

それとも
怠惰に過ごした時間への戒めだったのでしょうか?

でも、私は思いたいのです。

地上に戻った浦島太郎が
普通の<人間>に戻れるようにとの乙姫の優しさだったのだと。



時間。

つまりそれは
人間が人間である為に受け入れざるを得ないもの。

過ぎて行く時間はむしろ<生>そのもので
その中に幸せも不幸もあるのだとしたら
それは決して残酷なだけではなくて
例えば、成長も老いも人間が人間である証でもあるのです。

受け入れざるを得ないものを受け入れる。
そのことを素直に受け入れられる人が幸せな人。

そう言えるのかもしれません。


もし

幸福の予定と
不幸の予定が決められているとしたら
やっぱり
後に幸福が待っている方が
きっとどんな不幸をも耐えられるだろうな


でも

順番が逆だったら
不幸の前の幸福を果たして幸福と思えるだろうか?


幸福も不幸も
おそらくは過去の経験と比較して感じるもの


不幸や悲しみがあれば
その後の毎日がどんなに平凡なものだとしても
きっと幸福な毎日だと感じられる


もし

幸福の後の毎日が
ただ平凡な毎日に戻っただけだとしても
きっと物足りなさを感じてしまうんだろう

ましてや
幸福の後に不幸が待っているのが分かったとしたら
それは絶望に等しく思えるはずだ


幸福は不幸をそれ以上に打ち消せるけど
不幸もまた幸福をそれ以上に打ち消してしまう



やっぱり
明日のことなんて分からない方が良い

例え
運命の中では幸・不幸の順番が決まっているとしても
それを知るのは<その時>で遅くない

その時が来てしまえば
それが悪い方のその時だとしても
案外、開き直って立ち向かえるものだ

人間にはそのくらいの強さはきっとあるはずなのだから



良く晴れた日ほどシバレる。

これも冬の「北海道あるある」かも知れません。

不思議なもので
-20度の翌日の最低気温が-12度だったとしても
何だか暖かく感じる・・・とまでは言えないにしても
ホッと一息みたいな気持ちになるのも
これもまた冬の「北海道あるある」でして。

で、また次の朝の-15度がやたら寒く感じます。

北風や西風が強いと尚更です。


そんな冬の日々が続いている我が十勝。

仕事帰りの道すがら
夜目にも空が澄み渡っているのが良く判りました。

その見上げた寒空にはクッキリと丸い月。

「キレイだな。今夜は満月だっけ?」


実際のところ満月は六日です。

でも、それほどキレイに見えた訳ですから
それが満月かどうかなんて
そこは最早、大した意味を持ちません。

自分にとって大切な事は
眼に映ったモノがどう見えたのか?

それだけですよね。


ところで、満月は十五夜とも言います。

十五夜と言えば思い浮かぶのは
「中秋の名月」ですが
十五夜は何も秋だけのものではありません。


満月前後の月の名称では
十三夜とか十六夜という言い方があります。

十三夜月(じゅうさんやづき)は
満月に次いで美しいとされている月で
古くから月見の宴などが行われていました。
これからまさに満ちていく月ですので
縁起の良い月とされます。

十六夜(いざよい)は
月の出が十五夜よりやや遅くなっている事から
月がためらっていると見立てました。
「十六夜」とは“ためらい”の意味を持つそうです。

なんて風情があるんでしょうね。
昔の人の表現力や感性には感服してしまいます。
そして改めて
日本語の持つ言葉の響きや美しさを感じています。


そして満月の前夜の月は
十四日月(じゅうよっかづき)と言われています。
「待宵の月(まつよいのつき)」とも言います。
翌日の満月を楽しみに待つという意味ですが
又、幾望(きぼう)とも言い
満月(望月)の前夜で“幾”は「近い」の意味を持ちます。

音だけで読めば「幾望」は「希望」と同じです。
でも、気持ちでも通じるものがありそうですね。

「望み、願い、期待。
 月に込めた思い。
 一日、二日早いか遅いかにしたって
 まぁ、そこに大した意味は無いかな」

冷たい北風に肩をすぼめながら
見上げた真冬の月はいつにも増してキレイに見えたのでした。

そして、いよいよ迎えた立春。

「春か・・・うん、美しい響きだわ」

確かにね。

でも・・・カウントダウンをするには
まだ少し早いかなぁー。



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