時間という現実は残酷ですよね。
「何が?」といって
多分、多くのみなさんが挙げるのは
<時間は決して戻らない>と、いうことでしょう。
人生は幾つになってもやり直しが出来るとはいうけど
過去に戻ってやり直しが出来る訳ではありません。
気が付いた<その瞬間>から
確かにやり直すことは出来ますが
それは、そこからの修正にすぎなくて
過ぎた時間が戻ることはやはりありません。
時間が経つと人間は誰しも老いていきます。
老いは
人間からひとつ、ひとつと出来る事を奪っていきます。
時には人間から考える力さえも奪ってしまいます。
もちろん
どんなに健脚を誇った体力だろうと
どんな美貌でさえも<時間>の前では無力です。
そこに例外はありません。
昔から世界の各地に不死鳥伝説がありましたが
時の権力者達がこぞって
不老不死を追い求めた気持ちも
歳を重ねてきた今なら少しは解るような気がします。
ただ、それが本当の幸せなのかは判りません。
もし、自分一人だけが不老不死を手に入れられたら?
幸せだと喜べるのは
おそらくは最初の数年間だけでしょう。
いや、最初の数ヶ月、
もしかしたらただの数週間だけかもしれません。
その後に待っているのは恐ろしいまでの孤独かもしれません。
愛する人が出来る度に
その愛する人の死をただ見ているしか出来ないとしたら?
それを何度も繰り返さなければならないとしたら?
それが何百年も何千年も続いたとしたら?
きっと、耐えられませんよね。
そう色々なことを考えていくと
時間が過ぎて行くのは決して残酷なことではない。
そう思えてきたりもします。
望まない瞬間で時間が止まったままだったり
或いは、
進んでは戻ってはを悪戯に繰り返すことの方が残酷です。
それじゃ、上手い具合に
幸せな瞬間で時間が止まったり
幸せな時間だけを繰り返してくれるなら?
でも、それもやはり幸せとは呼べないでしょう。
人間にもし、<慣れ>という感覚がなければ
永遠の幸せと呼べるのかもしれませんが
残念ながら人間はそういう風には作られてはいないのです。
幸せな時間はやがて
ただ褪せていくのを待つようになっていくでしょう。
浦島太郎の玉手箱の教訓は
乙姫の言いつけを守らなかったことへの戒めなんでしょうか?
それとも
怠惰に過ごした時間への戒めだったのでしょうか?
でも、私は思いたいのです。
地上に戻った浦島太郎が
普通の<人間>に戻れるようにとの乙姫の優しさだったのだと。
時間。
つまりそれは
人間が人間である為に受け入れざるを得ないもの。
過ぎて行く時間はむしろ<生>そのもので
その中に幸せも不幸もあるのだとしたら
それは決して残酷なだけではなくて
例えば、成長も老いも人間が人間である証でもあるのです。
受け入れざるを得ないものを受け入れる。
そのことを素直に受け入れられる人が幸せな人。
そう言えるのかもしれません。