Neko

夢の汽車に乗って 2019年02月
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プロフィール

yumenokisya

Author:yumenokisya
現住所 北海道十勝国

 好きな言葉は
『なんとかなるべさ』

 そう、生きてさえいれば
何とかなるもんです。。。
   


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距離

神代の昔から・・・
いや、そこまで昔ではありませんが
清少納言の『枕草子』にもあるように
”遠くて近きは男女の仲”という言葉があります

(正しくは『枕草子・一六一段』
 ”遠くて近きもの、極楽、舟の道、男女の仲”)

もちろん

逆に
別れ際の男女なんかみたいに
”近くて遠きは”なんて場合もあるんでしょうけどね


遠い、近いといえば距離を指しますが
この距離にもいろいろな距離があります


一般的には<空間的距離>

つまりは現実の遠い、近いという距離です


それから<時間的距離>

ついさっきのことから遠い過去のこと
もしくは、ずっと先の未来のこと
これも或る意味では距離と言えるでしょう


そして最初に書いたような<精神的距離>


<空間的距離>や<時間的距離>は
共有している者同士なら大概は同じ距離感を持ちます

しかしながら
やっかいなのは<精神的距離>です

それが恋人であれ友人であれ
もちろん、異性・同性を問わず
相手との距離感は必ずしも同じとは限りませんね

それだけに相手の思う距離感を知りたくなるものですが

残念ながらメジャーで測ろうが
最新式のレーザー機器で測ろうが
こればかりは測ることは出来ません

でも、知る手がかりはあります


一緒に歩く時の相手の位置

例えば

話している時の相手の表情や視線

例えば

テーブルについた時の相手の座る位置
座り方やその時の仕草

例えば、そうね
四人がけテーブルなら対面なのか斜めの席なのか?
テーブルの上のグラスをせわしなく触っているとか?
脚を揃えて座っているとか脚を組んでいるとか
手の位置が何処にあるか、腕を組んでいるかとか
そんなひとつひとつの仕草で
相手の警戒度だとか好感度なんかも解かったりするそうです


ただ、問題は

”その意味に気がつけるか?”

なんですが、これがまたなかなかね


あまり不用意にジロジロ見ちゃうと
相手に余計な警戒感を与えてしまうし

警戒感だけならまだしも挙動不審に見られたら
これでは本末転倒です


自分で言うのもなんですが

私なんかは小心者のせいか
けっこう相手のちょっとした仕草で
”気がついちゃう”んですよね

「ん? あれっ?」

なんていったん思っちゃうと
精一杯の笑顔すら引きつっちゃって
これはもう誰が見ても
自分自身を贔屓目で見ても明らかに挙動不審?

挙句には無用な深読みなんてしちゃったりして
自分で勝手に<結論>を出しちゃって

で、何とかその場を取り繕いたくて

普段は無口な私が
取り留めも無い言葉の羅列を連射連発なんか始めちゃっては
ただひたすら

『早く、この時間よ終われ~~~!』

なんてね

でもって、早々にフェイドアウト希望?

その後の私は
深い深い自己嫌悪の海に溺れていく訳です


あー、何て面倒な性格!

良くこんな性格と六十年以上も付き合っているもんだと
私は私がとっても可愛くなります ←もはや、自虐的思考?


なんて
話は随分逸れた気もしますが・・・


話を元に戻しましょう


気がつき過ぎるのも困りものですが
かと言って余りに空気を読めないのも考えものです

加えて

異性、同性問わずですが
どんなに親しい仲でも
時と場合によって
その距離が縮んだり伸びたりはするものです

それに合わせて
こちらもちょっと引いてあえて距離を拡げるのか?
それとも逆に縮めにいくのか?
或いはあくまでも等距離を保つのか?

そこの匙加減ってけっこう難しいものです


までも楽観的過ぎるのかもしれませんが
案外、人間ってその辺は
本能的にこなしているのかもしれませんね

案ずるより産むが易し・・・なんてね

もっとも

それが有効なのは
本当に相手のことを解っている場合に
そうね、限られるのかもしれないんです・・・けどね



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記憶フィルター

記憶には二種類あります。

知識としての記憶と思い出としての記憶です。


知識としての記憶は
出来る限り鮮明に覚えていようと努力をします。

それでも忘れてしまうのが人間なのですが
しかし、それが知識であるなら何度でも覚え直すことが出来ます。


一方、そうはいかないのが思い出としての記憶です。

楽しい記憶や美しい記憶なら
いつまでも鮮明に覚えておきたいと願うでしょうが
そう都合良く自分の思う通りにはいきません。

それに
残念ながら思い出はそんな良いことばかりではありません。


忘れ去りたいと思う記憶があった時
人は覚えている記憶を無意識に選別し敢えて曖昧なものにしたり
或いは記憶をすり替えたり
もしくは
自らの意志で記憶を封印してしまうこともきっとありますね。


良いところだけを切り取って思い出にする・・・なんて
そんなことが出来るなら幸せなんでしょうが、それは不可能です。

しかも、そもそも記憶とは
自分の意志や願いとは関係無く時間とともに薄れてしまうものです。

なので人は
薄れて曖昧になった記憶の断片にフィルターをかけることで
美しい思い出、楽しかった思い出として残そうとするのです。


古い友人と久しぶりに会って昔話をする時
お互いの記憶が違っているなんてことはままあることですが
それはきっと
お互いのフィルターのかけ方の違いによるのかもしれません。


思い出としての記憶とは
それはつまり、願望というフィルター越しに見る過去の映像なのです。

ただ、そこに美化はあったとしても
だからと言って、それを以てそれら全てが嘘だということにはなりません。

今の自分にとって大切な思い出に違いはないのだし
それによって今の自分が生きる上での大切な礎になっているのですから。

つまり
記憶としての思い出が正しいかどうかは然程問題ではないということです。

これから生きていくことに比べたらですけどね。





非対称バランス

見てバランスが良いと思うのは対称なものでしょう。

図形にしろ造形物にしろ対称的なものほど安定感があります。

だから、見ていても安心感があります。

しかし、それが美しいのかと問われれば
果たして、どうなんでしょうね。

そこは賛否が分かれるところかもしれません。


或る人は美しいと言うかもしれません。
でも、別な或る人は、ただ退屈だと言うかもしれません。


逆に非対称なものを見た時、人はどう思うのでしょう?

見ていても安定感が無く落ち着かないと言うかもしれませんね。
でも、別な或る人はスリリングで見ていても楽しいと言うかもしれません。


対称と非対称。

どちらを好むのかというのは
もしかしたら、その人の生き方にも関係するのかもしれません。


ですから、どちらがどうだと言い切ることは出来ないでしょう。

ただ、非対称な造形物が絶妙なバランスで成立をしている時
それを見た多くの人はきっと感動を覚えるのではないでしょうか?

それを自分の人生に置き換えた時
そういう道の選択が出来るのかどうかは別として単純に憧れたりします。

言い換えるとそれは
選ばれたごく限られた人たちへの嫉妬なのかもしれませんが。


思いついた言葉で組み立てた構想
思いついた考えで繋げていく展開

ただ閃きだけで考え始めると
大概、物語はだんだんと横道に逸れていく

最初の構想は?
考えていた展開は?

ねぇ、いったい何処へ?



しかし

閃きが無ければ物事に枝葉が伸びていかないのも事実

頭の中だけじゃ物事は何も始まらないし進まない

それも事実



だけど

思いついたらやってみる
違うと思ったら止めてみる

時々立ち止まって
時々少し戻って別な道を探してみる

そんなことがあっても良い



結果

最初の構想と違っても
予定の展開と変わっても

それは大したことではない

間違ったことに気付いて尚、立ち止まれないことよりは



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