Neko

夢の汽車に乗って 2016年03月

プロフィール

yumenokisya

Author:yumenokisya
現住所 北海道十勝国

 好きな言葉は
『なんとかなるべさ』

 そう、生きてさえいれば
何とかなるもんです。。。
   


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好意を持っている男に対して女は言う。
「いつまでも少年のような心を持った人って素敵」

好意を持っていない男に対して女は言う。
「良い歳をして子供っぽいのってバカじゃないの」


好意を持っている女に対して男は言う。
「いつまでも少女のままの心でいて欲しい」

好意を持っていない女に対して男は言う。
「良い歳をしてブリッコしてんじゃないよ」




とある調査によると

男は女性と付き合った経験が皆無であっても
「俺は3人の女と付き合った事がある」と見栄を張り
女は10人の男性と付き合った経験があっても
「本当に付き合ったのは1人だけよ」と曖昧に答える。

又、別の似たような調査では

男の自慢話は10%の事実と90%の見栄で出来ている。
女の噂話は1%の事実と99%の無責任さで作られている。

男は他人の自慢話ほどつまらないモノは無いと思う。
女は他人の噂話ほど面白いモノは無いと思う。

なので
男の自慢話は周りには広まらないが
女の噂話は際限なく広がるし
その都度
元ネタが解らなくなるくらい内容がエスカレートする。




男は何でもすぐに話したがる。
女はそもそも本当の事ほど話さない。




男のプライドは
他人を守る為に神に与えられた。

女のプライドは
自分を守る為に自分で身に付けた。




愛する人を前にした時
男はこれが最後の恋だと思い
女はこれが初めての恋だと思う。




男はいつも自分の行動に酔い
女はいつも自分の言葉に酔う。




男にとって女は哲学の対象であり
女にとって男は心理学の実践の場である。




犬と猫の違いについて読んだ中にこういうのがあった。

犬は思っている。
「この家の人達は餌をくれるし愛してくれる。
 気持ちの良い暖かい住処を提供してくれるし
 可愛がってもくれるし良く世話をしてくれる。
 この家の人達は神に違いない! 」

猫は思っている。
「この家の人達は餌をくれるし愛してくれる。
 気持ちの良い暖かい住処を提供してくれるし
 可愛がってもくれるし良く世話をしてくれる。
 自分は神に違いない!」

男はしばし犬に例えられる。
女はいつも猫に例えられる。




女は男に問う。
「私と仕事とどっちが大切なの?」
男は答える。
「もちろん、君さ」
でも、女は言う。
「嘘ばっかり」
男は当然それを否定する。
「嘘じゃないよ。本当さ、俺の目を見てくれ!」

ここで「仕事」と答えるほど男はバカじゃない。
嘘でも「君だ」と答える。
だが、男は余計な事を言い過ぎる。

「俺の目を見てくれ!」?

最悪だ。

女の直視に
まともに耐えられるほどの度胸を持っていない事を
男は言った後で気が付く。

「あなた、何処を見ているの?」
「いや、君の美しさが眩しくて、つい・・・」

言えば言うほど男の目は泳ぎまくる。

「ちゃんと私の目を見て答えてよ!」

嘘のプロに通用する嘘をつける男なんてそうはいない。

大概の男は
女が根掘り葉堀り訊けば訊くほどいとも簡単に墓穴を掘る。



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「もし」

過去の事も現在の事も
「もし」なんて言葉で
言い訳や逃げ道にしちゃいけないんだよね



過去の事も現在の事も
「もし」で置き換えてしまったら
今の自分を否定してしまう事になってしまう



過去の事も現在の事も
「もし」で飾ってしまったら
未来の事だってきっとみんな嘘になってしまう



過去の事も現在の事も
「もし」が許されたとしても
今より幸せになるなんて保証にはならないんだよ





「もし」という言葉に
人は何の想いを込めているんだろう?

後悔? 反省? 自分への言い訳?
それとも単なる現実からの逃避?

過去に縛られているだけなのかもしれない

少なくとも「もし」って言葉は
他人へじゃなくて自分に対しての言葉だよね


過去の事も現在の事も
それは変えようの無い現実で
もし「もし」という言葉で
変えられるものがあるとするなら
それは自分の心だけなのかもしれない

もし自分の心を変えられたら
今までとは違った自分で生きていけるに違いない

もし自分の心を変えられたなら
受け止められなかった事もきっと受け止められる

もし自分の心を変えられるなら
もう過去の「もし」に頼らなくたって済む

そんな風にね

そして
それが出来るのは自分だけ

「もし、こう出来たら」
「もし、こう考えられたら」

見つめる先は未来の自分


マラソンマン

人生はゴールを決めないマラソンだ

そうは言うけど
現実的には
その都度いくつものゴールはある訳で
そのゴールを通過点に変えながら
より先のゴールを目指していく



切羽詰まった時ほど
普段は気にならない事が気になったりして
急いでやる必要のない事ばかり
しかものらりくらりと
「あーでもない、こーでもない」
などと現実逃避を試みる

ここで手を抜けば
後がだんだん苦しくなっていく事だって
本当は判りすぎるくらい判っているのに



マグロは
泳ぐのを止めてしまうと死んでしまうんだとか

幸か不幸か
人間は走らなくたって歩くのを止めたって死ぬ事はない

「そうさ、少しくらい休んだって
 別にどうって事はないじゃないか」

心に灯った弱音が悪魔に言葉を借りて言う

そう、どうって事はない

ただ、その結果の責任は自分が取る事になる



誰が人生をマラソンに例えたのだろう?

人生がリレーならどんなに楽だろう?

でも、自分の人生ではタスキを渡す相手などいない
どんなに辛くても独りで走り続けなければならない

いや、帆走をしてくれる人がいるなら
苦楽を共にしてくれる相手がいたなら
背中を押してくれる誰かがいたなら
より先のゴールを目指す勇気をもらえるだろう

それでも自分で走りきらなければならない
と、いう事に変わりはないのだけど

変わりはないし代わりもいない

でも、一緒に走ってくれる相手は探す事が出来る



自分は何の為に生きているんだろう?

幾度となく頭を過ぎる疑問の答えは結局は解らない

「それを探すのが人生というものだ」

そう言う人もいる

きっと、そういう事なんだろうと自分を納得させてみる

でも、マラソンランナーなら躊躇無くこう言うだろう

「走るのが好きだから」

人生の本質って
案外こういう処にこそあるのかもしれない



もし、人生がマラソンのようなものだとして
そのゴールどころか
これから先どんな道を走る事になるのか
途中にどんな景色があるのかさえ解らないとしても
もしかしたら
いつか途中で倒れて棄権をする事になるかもしれないとしても
それでも人はきっと走り続けていく

「道があるから走るんじゃない。
 走った後に道は出来るんだ」

なんて、いつか読んだ誰かの言葉のように
したり顔で嘯いてみるのも悪くはない

本当の人生なんて
そんな格好の良いシーンばかりじゃないんだから
せめて心意気ぐらいはね



The悠の銘

*明日出来る事は明日やれば良い

 あくせくするだけが能じゃない。
 やる時はやるんだから
 なら、休みたい時は休めば良い。
 人生は案外と長い。
 無理をして自分を追い込む事は無いさ。



*なんとかなるさ

 考えて何とかなるんなら
 好きなだけ考えたら良いさ。
 けど、考えても仕方ない事は
 考えても仕方がないんだ。
 ただね、諦めさえしなければ
 後は何とかなるもんだよ。



*朝が迎えられたらそれで良い

 夜は確かに長い。
 夜の闇は思うよりずっと深い。
 けど、抜け出せない夜は無い。
 朝日はそれを教えてくれる。
 朝日は再生の象徴。それは新しい一日の始まり。



*唯我独尊

 自分が自分を愛さないでどうする?
 どんな自分だろうと
 意味も無く生まれて来た人間なんていないんだよ。



*人生谷ばかりでも良いじゃん

 かの「がばいばあちゃん」は言っていた。
 『谷には川が流れているし花だって咲いている』
 高い山の谷間ほどキレイだって事もあるね。
 えっ? 男目線?(笑)
 ともあれ、山に登るだけが生き方じゃないよ。



*言葉に惑わされるな

 「慎重」と「優柔不断」の違いは何?
 「妥協」する事を「協調」と言うの?
 「諦める」と「止める」は同じ意味?
 「自己主張」と「我が儘」の違いは何?
 「リーダーシップ」と「強引」の差は何?
 都合の良い解釈で言葉なんて簡単に変わるんだよ。



*現実逃避はする為に在る

 人生から逃げ出さないのなら
 後は何から逃げたって良い。
 むしろ、一度リセットをしてやり直す為には
 出来るだけ遠くに逃げた方が良いんだよ。
 そしたら立ち向かう為の助走路も長くなるってものさ。



*妄想は囚われない

 虐め、虐待、短絡的な殺人や自殺etc
 彼らに欠けているのは想像力なんだと思う。 
 そして、想像力の無い奴に限って妄想を卑下する。
 けど、知ってるかい?
 想像の枠を超えた人だけが世界を広げられるんだよ。
 自分の為にも、もちろん相手の為にも。



*悠悠閑閑生生世世(ゆうゆうかんかんしょうじょうせぜ)

 意味は敢えて書きませんが
 これが或る意味では生きる上での理想かも知れません。
 理想ではありますが、あくまで理想なので
 ここと対極に生きる方が人としては本当の理想かも知れません。




言葉

男は言う。
「そんな事は言わなくても判ってるだろ?」

女は言う。
「言葉でちゃんと言ってくれなきゃ判らないよ」

男は言う。
「言葉なんていくらでも嘘を言えるよ」

女は言う。
「嘘でも女は言葉が欲しいのよ」

男は言う。
「じゃ、愛してる」

女は言う。
「じゃって何よ? 嘘ばっか」

男は言う。
「そういうお前はどうなんだよ?」

女は言う。
「そんな事、言える訳ないじゃない」

男は言う。
「なんだよ、それ?」

女は言う。
「ホントの事は言ったら負けなのよ」



なんだよ?
ただの痴話話かい?

いやいや、そんな話を書きたかった訳ではなくて。


確かに恋人達にとっては
会話は一種のゲームであり
又、言葉は
お互いに相手の気持ちを確かめる為の
重要なツールでもあります。

ツールと言えば味気ないものに感じがちですが
決して味気ないだけのものではありません。

調味料ではありませんが
そこにちょっとひと摘まみ?
笑顔だとか遊び心を加えたら
よりお互いの距離を縮められたりできますね。


言葉は意思伝達のツールです。
ツールですが
あくまで<ひとつ>のであって
そのツールの全てではありません。

言葉を用いない意思伝達にも色々な方法があります。

アイコンタクト、身振り手振り
ジェスチャーって、おっとこれは同じか?
それから、えーっと・・・
そうそう、テレパシーね?

って、それは無いかな?

テレパシーではありませんが
目で訴えるとか
目で会話をするなんて事はあります。

そういや「以心伝心」なんて言葉もありますね。

これぞテレパシー?


それはともかく
直接的に言ったとしても遠回しに言っても
それが伝わるかどうかはあくまでも相手次第です。

本当の事を言ったとしても嘘をついたとしても
本当か嘘か
それを決めるのは自分ではなくて相手に他なりません。

そして相手の決めた事が
こちらの意志とは関係なく
相手にとっての真実になってしまうのです。

とすると
言葉というのは相手の為だけにあるのでしょうか?

正しくは
<相手に伝える為>にというべきかもしれませんが。


一方で

言葉を口に出す事で自分自身に確認をするとか
自分自身に念を押すとか
或いは、自分自身と約束をするなんて事もあります。

つまり
言葉を伝えたい相手は
必ずしも<相手>ばかりではないという事です。

ただ、それが誰にせよ
持って回った言い方よりは
シンプルでストレートな言葉の方が伝わりやすい。

それだけは確かなのかも知れません。

もちろん、そこに気持ちがこもっていなければ
伝わる言葉も伝わらないのは言うまでもありません。



幸せ

幸せが不幸の裏返しだとしたら
不幸を知らないと
人間は幸せにはなれないのだろうか?


不幸が幸せの裏返しだとするなら
幸せを知っているほど
不幸は大きくなってしまうんだろうか?



メーテルリンクの「青い鳥」の物語のように
幸せがごく身近にあるものだとしたら
多くの人は何故それに気付かないのだろう?



欲望は限り無いものだけれど
身近にある
ささやかな幸せを素直に喜ぶ事が出来たら
人間はもっと幸せになれるんだろう


そして
いつもそんな風に生きていられたら
どんな大きな不幸もきっと
些細な波風程度にしか感じないで済むのだろう



永遠女と万年男子

夢見る女はいつも思っている。

「いつか白馬に乗った王子様が迎えに来てくれる」

だが
女はそれがメルヘンだという事をちゃんと判っている。

だから
実際に迎えに来たのが
オンボロな軽自動車に乗った
ごくごく普通の冴えない男だったとしても
性格が良いとか優しいとか
良い所をひとつ見つけられたら
それでちゃんと受け入れられるのだ。


夢ばかり見ている男は始末に悪い。

「願い続ければ夢は叶う」

いつか叶えられるかも知れない程度に思っているなら
それはそれでまだ可愛げもあるというものだが
夢が叶う事に疑いの余地を持たない。

しかも無謀な夢を持てば持つほどに。

だから
いつまでも夢が叶わないのを世の中のせいにしたり
妥協する事は負けだと思ってしまう。

追いかけるべきは夢ではなくて
自分自身の未来だという事に気が付けば良いのだけれど。




女が愛するのは
信じられない真実ではなく
信じられる嘘である。

すなわち
女にとって重要なのは
その真偽よりも目の前の事実に他ならない。


男が愛するのは
いつ来るか解からない未来ではなく
既に来た過去である。

男は今の恋人と同じくらい
想い出を愛している。
男にとってはそれは浮気などではなくて
ただ自分を愛している過ぎないのだけれど。




幼稚園時代に
手と手を取り合ってトイレに行っていた女子。

働き始めてからも化粧直しにかこつけて
何故か連れだってトイレに出かける。

そうか。
トイレは外界から遮断された場所。
そこで女になったり女子に戻ったり
女は自由に心の化粧も変えるのだ。


学生時代。
男子達はトイレに隠れてタバコを覚える。

「なんだよ、お前。
 タバコも吸えないのかよ。ガキだな」
「す、吸えるよ。そんなもん簡単さ。
 ほら、一本くれよ」

男のプライドはいつも何処か幼稚だ。
それはきっと大人になっても変わらない。




女は生まれた時から既に女だが
男は成長をして男になるのだとか。

その意味で
女は生まれてから死ぬまで永遠に女で居続ける。
いつまでも成長出来ない男を万年男子と言う。

万年男子・・・はて、誰の事かな?

ん? 何故か耳が痛い・・・



エール!

「いっそ希望なんて無い方が良い。
 希望さえ無かったなら
 人は苦しまなくて済むし
 何だって簡単に捨てられる。
 そしたらもっと楽に生きられるんだ」

でも、それじゃ人は何の為に生きるんだい?
何もかも簡単に捨ててしまって
その後にはいったい何がその人には残ってるんだい?

「残ってなくたって良いさ。
 余計なモノを背負い込むくらいなら
 そんなものはいっそ捨ててしまえば良い。
 そしたら何も考えなくて良い。
 そしたら何も心配しなくて良い。
 ほらっ、こんなに楽になるんだぜ。
 楽に生きる事を考えるのは悪い事なのかい?」

いや、悪いとは言わないよ。
それがもし<生きている>って言えるならね。




どんなに前に歩こうとしても
押し戻されそうになるくらいの
強い向かい風に向かって歩くのは辛いよね。
ましてや、そんな状況で顔を上げて正面を見据えてさ。
それでも歯を食いしばって歩くなんて
きっとどうかしている。

風に背を向けた方が楽になれるし
そのまましゃがみ込んだ方が辛くないよね。

なのにどうして人は歩こうとするんだろう?
どうして人は前を向こうとするんだろう?

きっと人は言う。

「苦しいのは、それこそが生きている証拠さ」




「悲しい時ほど笑いなさい。
 苦しい時ほど笑いなさい」

そう言った人がいる。

「嘘でも良いから笑いなさい。
 涙が出るほど笑いなさい」

そう言った人がいる。

「出来るだけ大きな声で笑いなさい。
 自分を信じて笑いなさい」

そう言った人がいる。

「それも勇気なんだよ」

そう言った人がいる。




「時間の流れは本当に等しいのだろうか?」

そう思う事がある。

同じく過ぎた時間のはずなのに
或る人は短いと言い、或る人は長いと言う。

一瞬で変わってしまうモノもあれば
五年経っても何も変わらないモノがある。

そのどれも、それは人の心。

どっちが良いとか悪いとかではなくて
どっちが正しいとか間違っているって事ではなくて
そのどっちも持っているのが人間なんだ。

受け入れられるモノ、受け入れられないモノ。
それだってどっちもあるよ。

でもね。
時間は過ぎた時だけを言うんじゃない。

これから来るであろう時間をどう迎えられるか?

その方がよっぽど大事なんだよね。




希望や未来にはこれと言う形はありません。

思い描くモノも人それぞれです。

だから、上手に描ける人もいれば
そうじゃない人もいます。

目の前に横たわっている
どうしようもない現実の中で
描きたくても描けない人だっています。


今日生きる事にさえ精一杯で
明日の事を考える余裕もない人達にとっては
目に見えない希望や未来なんて
無いのと同じなのかも知れません。


でももしも
目に見える希望や未来があるとしたら
それは生きる糧になります。

そしてそれは
新しい希望や未来を生み出す種になるでしょう。


もしも
希望とか未来が
目に見える形で存在をしているとするなら
それは子供達や若者達です。

その笑顔を守る為なら
僕達はきっと
どんな苦労も悲しみも乗り越えていける。

乗り越えていかなければならないと思う。

共に・・・


季節の変わり目は色々なモノが動きます


人の動きが多いのも
心が動きやすいのも
物事が動き始めるのも


季節の移りや変わり目と無関係ではない気がします

(昔からある”節分”も
 ちゃんと意味のある事ですしね)



中でも
特にこの時期は

その動きも一番活発になる”変わり目”です


冬の間
内側に向いていた心持ちも

長くなってきた日に誘われるように
暖かくなってきた陽射しに迎えられるように

徐々に外側へと転じていくでしょう



何かを始めたり
何かを変えたり
何かをやり直したり
何かを更に進めたり


それは

旅に出るとか
冒険をするとか
180度方向を変えるとか

そんな大袈裟な事ではないにしても
小さな変化を起こせさえすれば始まります



タイミングを待っている人がいるなら
待っているだけじゃなくて
小さなきっかけを見つけに出ましょう



この時期は
良くも悪くも人の動きも活発になります


袖すり合うも

そんな他生(多少)の縁が多く行き交うこの時期


”重いコート脱いで出かけませんか”

そんな歌の文句じゃありませんが
色んな人の動きの中に交じってみるのも
何処かで何かに当たるキッカケにはなるかも知れません


例えそれで

何かにつまづいて転んだとしても
もしかしたら
倒れた視界で見つけられるモノもあるかも知れません


そもそもきっかけなんて
何処に転がってるかも分からないのですから

つまづく事に臆病になる必要はありません



転がり始めたら後は思い切りです

倒れた先に
もし何も見つけられなかったとしたって

それでもまぁ良いじゃありませんか

開き直って
ついでに転寝でもしてみましょう

それぐらいの気持ちでいたいものです


本当に大事な事は
自分の心持ちを前に転じる事その事なんですから


YUKIへの想い

人生には様々な出会いと別れがある。
それらを人は縁と呼んだりする。


「袖擦り合うも他生の縁」

人は好んでこんな言葉を良く使うが
袖が摺り合っただけの単なるすれ違いが
果たして縁と呼べるほどの事なのだろうか?

それでは
すれ違った時に一瞬目が合ったのも
それは縁という事になる。

それだと
満員電車内は毎日が縁だらけという事になってしまう。


縁とはそんな軽々しいものではない。

もっと深い何モノかに結びつけられた
それはまさに運命のようなものなのだ。

そう。
例えば、私とYUKIの長い複雑な関係のような。



私がYUKIと初めて出会ったのはいつだったろう?

それがいつだったのか?
どういう切っ掛けだったのか?

今では思い出せないくらい多分、ずっと昔の事なのだ。


初めは単なる憧れだったような気がする。

待ち望んで、待ち焦がれたら切なくなって
会えば嬉しくて、そして別れはいつも突然で。

恋?

確かにそんな時期も有ったと思う。

でも、YUKIはいつも何処かクールで
私の事などはいつも子供扱いだった。

一度だけ・・・そう、あれはいつだったか?

私がひどく落ち込んでいた時。
YUKIは私を優しく包み込んでくれたっけ。

でも、だからといって
私に全てを許してくれた訳ではなかった。

一時の気の迷い?
それとも、ただの気まぐれだったのか。


そう言えば
いつもクールなYUKIだったけど
時折、ヒステリックなほど
感情をむき出しにしていた事もあった。

或いは
怒ったと思ったら、今度は急に泣き出したり。

そんな激しい気性の起伏を垣間見た事も
一度や二度ではなかった。

いったいどれが本当のYUKIの素顔だったのか?

私などには永遠に解けるはずもないパズルなんだろう。


腐れ縁も縁の内なんて言う人がいるけど
私とYUKIの関係もまた
まさに、そんな縁に繋がれていたのかもしれない。

何十年も顔を合わせて来ているのに
お互いはいつも付かず離れず適度な距離というか
或る種の緊張感で結ばれていたようにも思う。

クールさと美しさ。
優しさとむき出しの感情。

その相反する表情に
私はいつも振り回されるばかりで。

なのに別れる事もしないまま
私はずっとこの街に住み続けている。

いや、正確には
何度も別れたのだが
いつも一年も経たない内に
又、YUKIの方から私に会いにやって来た。

望んだ再会。
望まなかった再会。

それも確かに有ったのではあるけど。


愛と憎しみの共通点は情だと言った人がいる。

情がある事で人は愛し
情があるが故に人には憎しみが芽生える。

そうだとするなら
私は今でも昔のようにYUKIを愛しているのだろうか?

どんなに冷たくされても?
どれほど辛くされても?

それでも尚、私はYUKIを?


でも、もう・・・

YUKI。
やっぱり、ここで少し距離をおこう。


愛する事、愛される事。
どっちを大切に思うか。

それは人それぞれで違うんだろう。

でも、私は所詮は平凡な男。
耐える事よりも平穏を望んでいる。

今の私はいつまでも報われない愛よりは
束の間の温もりを求めてしまうんだ。


私はYUKIを裏切る事になってしまうだろう。

それは解っている。
その罪の深さも。

それでも尚
私の心は今はYUKIよりもHARUを求めている。

HARUの日溜まりのような温もりを。

正直に言えば
実はHARUとも長い付き合いになる。

ただ
その華やかさと裏腹なHARUの移り気には
どうしても長くは付き合えないでいた。

でも
今は無性にHARUに会いたい気持ちを
私は押さえられないでいる。

身勝手なのは十分に解っている。

「どうせすぐに別れるんでしょ?」

そうかも知れない。
笑うなら笑ってくれ。

だからと言って
又すぐにYUKIに戻る気にはなれない。

それが今の気持ちなんだ。


さよならYUKI。

永遠の別れにはきっと出来ない事。
・・・解っているけど。


翼があるのに飛ばない鳥は臆病なだけなのか?

翼があるのに飛べない鳥はただ弱いだけなのか?



人は願う

「もし翼が生えていたら
 この広い大空を自由に飛んで行けるのに。
 そしたらきっと
 今までの自分じゃない自分も
 見つける事が出来るのに」



確かに
もしも自分の背中に翼を持っていたら
生き方そのものも変わっていたかもしれない

だけどもし
自分だけが翼を持っていたとしたら
社会の中では自分は異端でしかなくなる
それを果たして幸せと呼んで良いんだろうか?

だけどもし
みんながみんな翼を持っていたとしたなら
社会に於いて
今いる自分の位置関係は
現実とは何も違ってはいないのかもしれない

翼にもきっと能力や性能の違いはあって
大きな翼を持っている人
小さな翼しか持っていない人
何処までも飛んで行ける強い翼を持っている人
あまり遠くまで飛べない人
速く飛べる人、高く飛べる人
そうではない人

そんな違いは
翼があっても無くても同じなんだろうから


と、するなら
翼が欲しいと願う事に意味はあるんだろうか?


いや、意味はあるのです

確かに
翼が欲しいと願う事は見果てぬ夢に過ぎません

現実には有り得ない事なのですから

しかし
人間は翼を持つ事は出来ます

現状から飛び出す為の翼
つまり勇気という翼を持つ事は出来るのです

いや

誰もが元来持っているはずです

そうであるなら
後はそれを遣うかどうかは自分次第です




自問自答の夜に・・・


三月三日は雛祭り

桃の節句ですね

旧暦の三月三日頃が桃の花の咲く時期だったから
こう呼ばれたそうです

そうは言っても
ここ北海道ではまだまだ冬の最中
咲いているのは桃でも梅でもなく雪の華ですけどね


ところで
お雛さまに飾る「菱餅」は
イタリアの国旗と同じく大抵は三色なのが定番ですが
それにもちゃんと意味があるそうです

色は下から順に白・緑・桃色

つまり
雪が降ったあとに草の芽の緑が出て
そこに桃の花びらが散る

源氏物語の世界を見るようです

その昔、桃の節句には桃の花を愛でたり
桃の花を浮かべた食事やお酒を飲んで楽しんだり
桃の葉っぱを入れた桃湯(お風呂)に入って
無病息災を祈ったそうです



そして現代

我が家の娘達は菱餅はもちろん
雛あられも食べようとはしません

白酒も飲みません

ケーキを食べて
チョコを食べて
ファンタグレープを飲んでいます

じゃ、別にお雛様関係ないじゃん!(笑)


因みに我が家にも
お雛様は三段飾りではありますが有ります

でも
我が家に猫が来てからは飾れなくなりました

奴ら、雛段に乗っては
色々とやらかしてくれちゃったもんですから orz

全く油断も隙もありゃしない!


ずっと以前
クリスマスの時にも書いたかも知れませんが
我が家ではここ何年も
クリスマスツリーも飾っていません

もちろん有るんですよ
150cmほどの割と大きなツリーが

言わずもなが?
ぶら下がっているオーナメントが
猫達のかっこうの餌食になってしまうんです


猫二匹 > 娘二人

勢力図を数式で表せば
我が家ではこんな構図でしょうか


そりゃね~

雛祭りに
ケーキ&チョコ&ファンタグレープでも
娘らを責められませんわね

もちろん
猫達を責める気も毛頭ないんですけどね(笑)


そう言えば

雛人形の片付けが遅れると
女の子は結婚が遅れるのだとか?

じゃ、その雛人形を出さなかったら?

ん~ 怖いから?
考えないでおきましょうか?



さてさて
娘さんのいるご家庭のみなさん

今年はどんな雛祭りを過ごすでしょう?


かつて、娘さんだったみなさん

今年はどんな雛祭りを過ごしますか?


この日ばかりは
男性諸氏の出番はありませんね

お雛様(女性軍)の仰せの通り
「はいはい」と大人しくしていましょうか・・・ね




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