Neko

夢の汽車に乗って 2014年03月

プロフィール

yumenokisya

Author:yumenokisya
現住所 北海道十勝国

 好きな言葉は
『なんとかなるべさ』

 そう、生きてさえいれば
何とかなるもんです。。。
   


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歳時記とは

もともとは
国や地方または各種団体の
年中行事の事柄や
自然の風物等をまとめた書物をいいます。

江戸時代以降の日本では
主として俳諧・俳句の季語を集めて分類し
季語ごとに解説と例句を加えた書物のことを指します。

ただ

それらは単なる季語の解説というよりは
言ってみれば
古来からの四季折々の季節の言葉と心を集約した
俳句の実践的な用語集大成であり
いわば日本人にとっての季節のバイブルです。

そして歳時記によって
私たちは
日本の美しい四季のうつろいを確かめることができます。


歳時とは
一年のうち、その時々、
つまり四季折々という意味です。



などと
一応、それらしく?
色々と御託を並べてみましたが(笑)

なんてことはない。
今夜はこの歌が聴きたくなっただけでして。


この時期になるとつい口をつく歌です。

心が春色の切なさでいっぱいになります。


それにしても、さださん。

<歳時記>と書いて
”ダイアリィ”と読ませるのは反則です(笑)






《歳時記(ダイアリィ)》さだまさし


卒業までに咲けばいいねと君は
ある日急に窓辺に鉢植えを置いた
何も無しに別れてゆくよりも
残したいと始めた歳時記(ダイアリィ)

一頁目には二人の略歴
二頁目には二人の出逢い
三頁目からたどる季節

記す度、つのる悲しみに
君は耐えかね七頁目からは
僕の名前何度も連ねた


花の名前も聞かず買ったくせに
勝手に自分でかすみ草と決めつけたね
早く咲いてと毎朝祈って
水を過ごして枯らしそうになって

眠らず一人看病してたよね
花の名前呼びながら
無事だった朝涙ぐんで

すてきな水色に君は笑った
そんなちひろの子供の絵の様な
君の笑顔がとても好きだった


卒業したら君は故郷へ帰って
小さな子供の先生になるといった
言葉通りに子供に囲まれた
君の笑顔の写真が今朝届いた

お嫁にゆくと添えた手紙
つまりそれが2年の月日
書きかけた歳時記あとがきにかえて
君が自ら刻んださよなら

今思い出を煙に帰して
せめて君の明日を祈る
さよなら僕の好きだった人
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感受性

感受性が強いとか弱いとか言いますね。

芸術活動をしている作家さんとかなら
感受性が豊かじゃないと務まりません。

閃きとか想像力って
やはり感受性と切り離せないものですからね。


でも、日常生活の場合はどうなんでしょう?
感受性ってそんなに必要なんでしょうか?

感受性が豊かと言うだけなら良いのですが
これが感受性が強いと言う言い方になると
また、違った話にもなります。

私的見解ですが
感受性が豊かと言うのは
受け止める懐の深さとか
そこから発想する想像力の豊かさだと思います。

一方
感受性が強いと言うのは
外からの感覚的な刺激とか感情的な働きかけ
つまり
心が外からの影響に過敏に反応をしてしまう事。

繊細とも言えますが
見方を変えると神経質ともなりかねません。

さらに言うなら
心が敏感過ぎるとストレスになります。

ストレスが
しいては自分を苦しめる事にもなるのです。


例えば
コーヒーカップの茶渋が気になる人もいるし

全然気にならない人もいるでしょう。


気にならない人は無頓着なだけでしょうか?


もしかしたら
全てをありのままに
受け入れられる人なのかも知れません。


例えば
聞いた話やドラマを観ても
もらい泣きをしてしまうと言った
何にでもすぐに感情移入をしてしまう人。

言った本人ですら忘れている一言を
いつまでも気にしている人。

相手の表情でその気持ちを察知できる人。

そんな人は本当に優しい人なんでしょうが
どれだけのストレスをため込んでいるんでしょう?


かえって鈍感な方が
もっと気楽に暮らせるんじゃないでしょうか?

空気を読めない人って嫌われやすいけど
それくらいな人の方が長生きできるのかも知れません。

だからって
そう言う人になりたい訳じゃないし
もし自分がそんな自分なら
自分が一番先に自分を嫌いになるでしょうけどね。


感受性って豊かさは求めても
そこに強さを求めてはいけないんでしょう。




若い頃は失敗をするものです。

根拠のない自信は若さの特権でもあるし
頭で考えるより先に行動をするのが若さなら
そこに失敗は付き物です。


若い頃は色々な事に悩みます。

いくら本を読んで知識を貯め込んでも
いかんせん、実際の経験が少ないのですから
判断に迷って当たり前なのです。


若い頃の後悔はたかが知れています。

悔やまれる事が仮にたくさんあったとしても
それ以上に次から次へと新しい事が起きるから
後悔をする暇がないと言った方が正しいのかも知れません。



若い時って失敗をした時も
友達の手前
強がっては見せるけど
それが違う事は自分が一番解っているのです。

でも素直に自分の失敗を認められない。

いや、それよりも
自分の弱いところを友達に見せたくないんです。

しょうもない事に意地を張って
張子の虎のように脆い虚勢で自分を守ろうとする。


今にして思えば
やっぱり若かったんでしょうね。

でも
怖いもの知らずなだけだったかも知れないけど
行動力だけはあったんだよな。

失敗はいつでも取り戻せると思っていた。

だから余計に他人に弱みを見せずに
意地を張っていたんだと思う。

それも根拠のない自信だったんだけどね。



若い頃のそんな事を思い出しては
「若気の至りだったなぁー」
と苦笑いをします。

時には自嘲気味にわざとふざけて
「若気の行ったり来たり」
なんて言ったりもします。

どっちにするかあれこれ悩んだり
後悔をしたかと思うと
次の瞬間には
「いや、そうじゃない」
と、自分を弁護してみたり。
で又、次にはやっぱり後悔したりと
だんだん自分の気持ちが解らなくなります。

まさに<行ったり来たり>ですよね。



じゃあ、五十歳も後半に入った今は
どうなんでしょうね。

あの頃の自分を<若気の至り>だなんて
笑い飛ばす事が出来る自分になっているんだろうか?


失敗を恐れ
悩む事から逃げようとし
後悔をする事にも怯えています。

考えてみると<大人>って便利な言葉だね。

慎重に行動が出来るのが大人なのだ。
客観的に冷静に判断できるのが大人なのだ。
バカな事はしないのが大人なのだ。

言い訳をもっともらしく正当化できます。

「大人はね」

何でも解った風な口で言えば
偉そうに聞こえるよね?

そう、口だけなら何とでも言える。



でも、それで良いのか?

枯れる事を大人になるとは言わないだろ?

残りの時間を気にしたりだとか
今の自分に拘ったりだとか
あの頃の俺が見てたら
きっと腹を抱えて笑ってる。

いや、情けない顔で俯いているかな?

もし泣いていたとしても
それは少なくとも同情ではないだろう。


年相応の自分にはなりたいと思う。

色々な経験もしてきたし
今だから解る事もたくさんある。

でも、だからって
<大人>を振りかざす大人にはなりたくないよ。



ネタ

PCの電源を入れた。

「さぁて、今夜は何を書こうか」


PCを立ち上げて30分。

珈琲が美味しい。


PCを立ち上げてやや1時間。

3本目の煙草に火を点けてみた。


PCを立ち上げて1時間半と少し。

ちょっと飽きてきた。


PCを立ち上げて2時間が経過。

気晴らしか?
眠気覚ましか?

冷たい水をグイッと一息で飲み干した。


PCを立ち上げて2時間と37分と8秒。

PCの電源を切った。








「おいおい、それだけ?」

何が?

「何がって・・・
 ほら、いつもはある事ない事を書いてんじゃん?
 今夜はどうすんだよ?」

まぁ・・・
そんな夜もあるって事さ。

「そんなんで良いのか?」

だって、ネタがないと書けないんだもの。
おとなしく寝た方がマシじゃない?

「おっ、上手い事を言うじゃん。
 それだよ、それ!」

へっ?

「へっじゃないって。
 ネタなんて何処にでも転がってるなんてさ。
 お前、いつも豪語してんじゃん?」

そんな事、言ったっけ?

「あぁ、いつも自信満々にね」

でもさ。
どんなに頭をひねったって
出ない時は出ないんだよ。
仕方ないよ。

「仕方ないで済んだら警察はいらんわ」

何それ?

「オホン、ともかくだ。
 何か書くまで絶対に寝かせんぞ!」

じゃ、何かネタを提供してよ。

「ネタ? 俺に?」

あぁ、お前にだ。

「俺は・・・それ、専門外」

なんだよそれ?

「そういや、逆にさ」

うん?

「ネタってそもそもどう言う意味だか解る?」

ネタ?
まぁ・・・話題とかさ。
話のテーマとか、そんなんじゃないの?
お笑いなんかではネタって良く言うよね?

「そうだね。
 おー、だから、ネタなのかな?
 話を練ってオチまでのストーリーを作る。
 そのストーリーがネタだろ?
 つまり、練ったから来てるとか?」

話を練ったからネタ?
ちょっと無理があるんじゃない?

「そっか、良いヒラメキだと思ったんだけどな」

正解は<種>を逆さにした言葉らしいよ。
業界用語的なかどうかは知らないけどさ。

「何だよ、知ってんのかよ?
 それってギンザをザギンみたいな?」

まぁ。
種みたいなひとつの言葉を膨らませて
それで話を作って行く。
お笑いの場合はオチまでの展開って言うかさ。

「なるほど。
 さすがに説得力があるね」

お前に言われても嬉しくはないけどね。

「までも
 何となく話のヒントになったんじゃない?」

そう?

「そうだよ。
 ほら、こうして何だかんだと
 もうだいぶ書けたぜ」

おー、ホントだ!

「だろ? 俺に感謝しろよ」

でもさ。

「おいおい、スルーか?」

困った時は見方を変えてみるって大切かもね。
ひとつの言葉に縛られているとさ
それしか見えなくなるけど
同じ言葉でも見方をちょっと変えただけで
違った答えって出て来るもんだよね。

「やっぱり俺に感謝だろ?」

誰に?

「だから俺様にだよ」

自分でそんな事を言えるかい。
独り言なのに。

「おいおい、それを言っちゃ・・・」

良いんだよ。
これもネタだから。



引き出し

改めて
自分の引き出しの少なさを思い知らされます。


引き出しが少ないのみならず
中に入っている<モノ>も
いつの間にか減ってしまっているようです。

昔は
自分の引き出しの中には
溢れるくらいたくさんの<モノ>が入っていると
自負をしていたんですけどね。



昔は食事の度に
「ご飯粒を残したらダメだよ。
 農家さんが丹精込めて作ってくれてるんだから
 残したらバチが当たるよ」
そう、母に良く言われていました。

そう言う母は
おひつに残ったご飯粒を
毎日きれいに片付けていました。

時には
縁に残ったご飯粒は
おひつにお湯を入れてうるかしたりしながら。


今、私は自分の引き出しの中に
こびり付いている<カケラ>を
何とかヘラで掻い出しながら文章を書いている。

そんな感じでしょうか。


ドラえもんのポケットのように
何でもすぐに出てくる
魔法の引き出しを
持っていたら良いのでしょうが
そうはいきません。

私の文章を読んでいただいた方からは
時折り
「お前は多重人格か?」
って言われますが
(私にとっては一番の褒め言葉です)
私にはそんなゴーストライターもいません。

昔は良く<ネタ>を提供してくれていた娘達も
今ではすっかり全うになってしまって
<ネタ>があっても提供を拒んでいます。


引き出しの中身って
使えば使うほど減っていきますが
使わないと
それ以上に失くなってしまいます。


引き出しの数や
その中身を増やす方法はたったひとつ。

感性を磨く事です。

本を読むのも良いでしょう。
音楽を聴いたり映画を観たり
もちろん
絵画や彫刻、そして写真鑑賞でも良いのです。

アプローチは色々ありますが
共通するのは作者の心に触れる事です。

つまり想像をする事。


でも
それだけではなくて
もっと身近なところにも
意外とその手立てはあったりします。


折しも
もうすぐ春です。

家を飛び出して
外に出てみるのが手っ取り早いかな。

地面を歩いて感じる事。
手に触れて感じるもの。

風の匂い。
空の色の変化とか野山が形作る風景。

目に見えるもの。
聴こえるもの。

きっと、たくさんあるね。


さぁ~
錆付いてきている感性を
また、磨き直ししなくっちゃ!!!



隠し事

当然の事ですが隠し事はしちゃいけません

当たり前の事ですが
バレたら困るような隠し事はしちゃいけません

隠し続けられない隠し事はもっとしちゃいけません


相手の視線を
何があっても常に平常心で受け止められる人以外は
隠し事なんかしちゃいけません

少なくとも相手の目を見て
三十秒は噴出さない自信がある人以外は
隠し事なんかしちゃいけません


嘘が苦手な人は隠し事なんかしちゃいけません

嘘が得意な人ほど
案外、自慢気に余計な事までしゃべり過ぎてしまうから
隠し事なんかはしちゃいけません


誰かのせいにするような隠し事はしちゃいけません

誰かをかばう大義名分があったとしても
隠し事はしちゃいけません


すぐに誘導尋問に引っかかってしまうような
性格が素直な人は
隠し事はしちゃいけません

気性の激しい人は
逆に相手の思うツボにはまりやすいので
隠し事はしちゃいけません


恋人が大事なら隠し事はしちゃいけません

奥さんや御主人の事が気になるなら
隠し事はしちゃいけません

ちょっとだけなんて甘い考えで
隠し事はしちゃいけません

猜疑心の強い人は
言わずもがな隠し事はしちゃいけません


バレたからって逆ギレしちゃうような人は
隠し事なんかしちゃいけません

開き直るくらいなら
最初っから隠し事はしちゃいけません


隠し事をしている事に罪の意識を持っちゃう人は
そもそも隠し事なんかしちゃいけません

後ろめたい気持ちがガマン出来ない人は
隠し事はしちゃいけません

隠し事を自慢したい人は
隠し事なんかしちゃいけません


独りで墓まで持って行く覚悟がないなら
隠し事はしちゃいけません






良いですか、みなさん

隠し事を隠し通すなんて事は
普通の人間には出来るはずもないのです

唯一、それが可能な人は
隠し事を隠さない人です

例えば、私のようにね

だって私は何も隠してはいません

ただ訊かれないから答えないだけです

まぁ、常日頃
それだけ良い人を演じ切れているって事ですかね

あっ、みなさんは止めておいた方が良いですよ

生半可な隠し事を見逃してくれるほど
あなたのパートナーは甘くないでしょ?

まぁね

それにもし
そんな優しいパートナーがいるとするなら
逆に言えば
それだけ相手に興味がないって言い方も出来ますかね

中には
知っていて知らないふりをしているなんて
本当に優しいパートナーもいるんでしょうけど
それがいつか
あなたに対する最終兵器にならない事を祈ります


ん・・・?

えっ!?

あっ?

ま、まさか・・・?






日常

何も特別な事もなくて
大きな事件が起きる訳でもない

小さな行き違いや
ささやかな意見の相違はあったにしても
それで何がどうなる訳でもない

何が良いとか悪いとか
お互いの事を
それなりに思ってはいるんだろうけど
でも、それを口に出すかどうかは別な話で
誰もが好き好んで
水面に石を投げたいとは思ってはいない


「人生なんてそんなものさ」

そう嘘ぶきながら
みんなドラマのような人生を期待はするけど
そんなドラマのような事は
本当は起こって欲しくはないんだよね



仕事の事は家には持ち込まないから
訳知り顔で機嫌を伺わないで良いよ

君の周りで今日
飛び交った噂話も来週にはきっと
もう誰も口にしないだろう


ここに空気がある事
それを吸って生きているなんて意識は
きっと誰も持っちゃいないよね

人はみんな無いものねだり
ましてや退屈なんかしたくない


「平凡なんてつまらないだけ」

そう嘘ぶきながら
みんなドラマのような人生を期待はするけど
そんなドラマのような事は
本当は起こって欲しくはないんだよね


僕もそう思っている

変わらない毎日と
変わらない君がいて
それで僕の世界は回っている

それが幸せなんだって言い切るには
少し嘘っぽい気もするけど
日常が今日も日常でいられる事には
そうだね、感謝しているよ







 <作者注>
この話は創作であり
実在の家庭をモチーフにしているものではありません

しいて言うならば
或る意味
作者の脳内に実在する理想かも知れませんが・・・




ネコヤナギ

そう言えば・・・


昔、私が小さい頃。

春先になると母が何処からか
ネコヤナギの枝を切ってきて家で飾っていました。


花瓶に挿していると
ネコヤナギの
白い綿ぼうしが少しづつ膨らんで・・・

それを触るのが好きだったっけ。


外は寒くても家の中では
少しだけ春の息吹きを感じられたものです。


春には菜の花を飾って
夏が過ぎた頃にはホオズキ
十五夜の頃にはススキを飾って・・・


田舎だったから出来たのかも知れませんが
季節それぜれの風情が家の中にもありました。


考えたらどれも
家の周りにあるものばかりだったんですけどね。


でも今は
勝手に切って来ちゃダメなんだろうなぁ~


第一
菜の花やススキはともかく
ネコヤナギなんて
しばらく見て無いんだって事を思い出しました。


今は花屋さんで買うものなのかな?


庭の林檎の木の芽もまだ堅いけど
せめてそんな小さな風景を眺めながら
春が満喫出来る日を楽しみに待ちましょうか。

nekoyanagi-330.jpg




kyougaeiennara.jpg



明日の天気を気にしたところで
どうなるものでもないけれど

知りたいと思う事がある
たとえばそれが雨だとしても

君は少し寂しそうに笑ってみせる
優しかった人の事を話してみせる

人生って奴の明日の事を
例えばもう少し解っていたら
あの人の事ももっと愛せただろう




時の流れを戻してみたい
かなわぬ願いと言う前に

どんな風にしたって後悔は
残るものだと知っているけど

君は少し寂しそうに笑ってみせる
優しかった人の事を話してみせる

欠けていった月がやがて満ちてくように
あの人が好きだった君の笑顔が
いつか戻る日を僕は祈ってる




希望

希望は
人が生きていく上で必要不可欠なものです。

希望があるから
例え今が辛くても頑張る事ができます。

希望があればこそ
明日を信じる事ができるのです。


でも

希望は時に残酷な仕打ちをします。

希望を持てば持つほど
裏切られた時のショックも大きくなります。

希望を持つがゆえに
人は苦しみから逃れられなくなります。


そう考えると
「簡単に希望を捨てるな」とか
「希望を持っていればいつか笑える日がくるよ」
なんて軽々しくは言えなくなります。


希望を持つ事は善なんでしょうか?
それとも悪なんでしょうか?

下手な希望は持たない方が
人は幸せになれるのでしょうか?


否。


それでも希望は持ち続けて欲しい。

そう願わずにはいられません。

いや
そう願いたいのです。


生まれてきた事。
今日、この日を生きている事。

今まで出会ってきた人との関わり。

その全てが奇跡だとするなら
希望は奇跡を照らす光であり
次の奇跡を導く光でもあるのです。


時の流れが癒してくれるもの。
時の流れでも癒せないもの。

それは確かにあるでしょう。

でも

苦しくて辛くてもう歩けなくなった時。
そこからもう一歩、足を前に踏み出させるもの。

それが希望です。



暖かな部屋の中で
何一つ不自由のない日常生活を過ごしているにも関わらず
小さなひとつひとつに愚痴を言い文句を言う。

そんな生活をしている私に
こんな偉そうな事を書く資格があるのか?

書いたところで
どんな説得力があるのか?

それは解りません。

私にはただ祈る事しかできません。


いつか、いつの日か
心からの笑顔で未来への希望を語れる日がくる事。

そんな願いを込めて今日の日に。。。



大事なモノ

虹ってあんなにハッキリと見えているのに

決して触れる事は出来ないよね

それどころか、近づく事さえ出来ない



見えているからって

必ずしも実体があるとは限らないし

見えているモノが全て真実だとも限らない



見えているモノは

本当に知りたい事のホンの一部でしかない




空気にしても

人の心にしてもそうだけど

見えないモノの方が遥かに大事なモノだって事



あるよね




信じると言う事

他人を信じるのは良い事だけど
だからと言って
全てを鵜呑みにしてはいけない


他人を信じる場合
規範となるのは
自分の出した答えを
自分が信じられるかどうかだ

それができたなら
例え裏切られたってどうって事はない

信じたのはあくまで<自分自身を>なんだから


もっと言うなら

それが信じられないのなら
他人を信じるべきじゃない


つまり
他人を信じると言う事は
自分を信じると言う事なのだ



先日、熱を出した頃から
左下の奥歯が浮き、歯茎が腫れだしていた。

熱のせいだろうとタカをくくっていたのですが
熱が下がってもいっこうに良くならず。

「まぁ、数日ガマンをしたら
 またすぐに治まるさ」

と、何としてでも
歯科医院に行く口実を作りたくなかった私。


実は私・・・

歯科医院が大嫌いなんです。


<チュイーン>

あの歯を削る時の音。
回転摩擦で歯の焦げる匂い。

「あっ」
想像しただけで
妄想族である私の身体は火照り・・・
いや、ちゃうちゃう!
身体は硬直しちゃいます。


トンカチで私の歯をコンコン叩きながら
歯科医は優しい口調で訊きます。

「ここ痛いですか?」

「うぐうぐ」←口が開きっぱなしなので喋れない

「痛かったら痛いって言ってくださいね♪」

「うぐうぐ」←しゃべったら口の中の唾液が溢れそう

って、喋れるわきゃないべさ!

ニコニコした満面の笑顔と
優しい口調で訊かれれば訊かれるほど
<お前はドSか?>
と思ってしまいます(笑)


例え
美人の歯科助手さんがかがんで
私の口を覗き込んだ時に
ふとした弾みで
歯科助手さんの柔らかな胸が
私の緊張で硬直した身体に触れ
思わず<ドキドキ>したとしても
それで
「それじゃまたすぐに来ます♪」
なんて気には絶対なれません。


例え、
受付のお姉さんが
新垣結衣や井上真央だったとしても
歯科助手さんが
石原さとみや佐々木希や深田恭子だったとしても
歯科医が
檀れいさんだったとしても

私は宣言できます!

「好きです!」

ヘ(__ヘ)☆\(^^;ナンデヤネン


いや、もとい!


それでも私は歯科医院が大嫌いです!


それにしても
歯科医と歯科助手さんとか
医者と看護師さんのひそひそ話って気になりません?


いや、いっそね。

例えば手術中。
メスを渡した看護師の手を取って医者が言った。

医者 「ねぇ、今夜飲みに行こうよ」

看護師「先生、止めて下さい。こんなところで」

医者は私をチラッと見ると看護師に答えた。

医者 「なぁに、大丈夫だよ。聞こえてないって」

看護師「そう言う問題じゃありません。
    今、手術中ですよ」

医者 「大丈夫さ。こんなの朝飯前だよ。
    それより、今夜良いだろ?」

看護師「もう、先生ったらぁ~♪」


もし、手術中にこんな会話がされていたとして
中には不謹慎だとかとんでもないと
怒る方もいるかも知れませんが
私にしたら全然OKです。

それだけ手術は簡単で
私の病状は悪化していないと言う証拠ですから。

これが
医者の手も震えるくらい超真剣に手術をされたら
ねぇ?
逆に怖いと思いませんか?


問題はその判断ができない場合です。

例えば手術中。

医者 「あっ!」

看護師「先生、どうしたんですか?」

医者 「いや、ちょっとね。君、ぼそぼそ」

看護師「は、はい! でも、先生・・・」

医者 「ぼそぼそ」

看護師「は、はい」

医者 「ごにょごにょ」

看護師「わ、解りました。でも、これは?」

医者 「ぼそぼそ・・・で、ごにょごにょ」


もし、自分の手術中。
麻酔で意識がもうろうとしている中で
ところどころ、こう言った会話が聞こえてきたら?

「『あっ!』って何よ?
 いったい何があったんだ?
 どうしたって言うんだ?
 私はどうなる?」

ねぇ、気が気じゃないでしょ?

それでなくても医者とか看護師さんって
マスクをしている事が多いので
普段でも聞き取り難い時ってありますよね。

訊き返すにしても
小心者の私にはとても無理です。


で、話を歯科医に戻しますが
今日、諦めて
スカイツリーから飛び降りる覚悟で抜歯をしてきました。

と言う事は
後、数回は歯科医院に通わなければならないわけです。

ガッキーも深キョンもいないし
歯科医は壇れいさんどころか男の先生だし。

そんな地獄のような所にこれから何度も通えと?

誰に? いや、私ですけどね。

せめて、先生。
今度、歯科助手さんと秘密の会話をする時は
私もぜひ仲間に入れてくださいませ。

本当は歯科助手さんをくどいてるんでしょ?
それとも合コンの打ち合わせ?

先生、良いな。楽しそうだな。


はぁぁぁ・・・・(ため息)



桃の節句

三月三日は雛祭り。

桃の節句です。

旧暦の三月三日頃が
桃の花の咲く時期だった事から
こう呼ばれるようになったそうです。

ところで
お雛さまに飾る「菱餅」は
イタリアの国旗と同じく
大抵は三色なのが定番ですが
その意味はとてもロマンチックです。

色は下から順に白・緑・桃色。

つまり
雪が降った後に草の芽の緑が出て
そこに桃の花びらが散る。

源氏物語の世界のように風流ですね。

その昔は桃の節句には
桃の花を愛でたり
桃の花を浮かべた食事やお酒を飲んで楽しんだり
桃の葉を入れた桃湯(お風呂)に入って
無病息災を祈ったそうです。



そして現代。

我が家の娘達は菱餅はもちろん
雛アラレも食べようとはしません。

白酒も飲みません。

ケーキを食べて
チョコを食べて
ファンタグレープを飲んでいます。

じゃ、別にお雛様必要無いじゃん!(笑)

と、言うより
それらの何処にも季節感は元より
風情も風流も無いですよね?

良いのかそれで?
桃の節句だぞ。

せめて桜餅くらいは食べようよぉ~~~!

って、桜の節句じゃないけどね(笑)

もし
「良いのかニッポン」なんて番組があれば
間違い無く我が家は国賊と呼ばれる・・・かも?


ちなみに
我が家には二人の娘がいます。

お雛様も三段飾りではありますが有ります。

でも
我が家に猫が来てからは
迂闊に飾れなくなりました。

雛段に乗っては
<奴ら>が
色々とやらかしてくれちゃうんですよね~


*写真は数年前のものですが
 飾り終わって、さて写真をと思ったら
 既に先客がポーズを決めていた・・・の図(笑)

neko-to-ohinasama.jpg


以前にも書いたかも知れませんが
我が家ではここ数年
クリスマスツリーも飾っていません。

一応有るんですよ。
私の身長くらいの大きなツリーが。

じゃ、何故?

それは言うまでもなく
下げているオーナメントが
猫二匹の格好の餌食になるからです(笑)


結果として?

扱い的には

猫二匹 > 娘二人

我が家ではこんな構図でしょうかね(笑)


そりゃねぇ~

雛祭りに
ケーキ&チョコ&ファンタグレープでも
娘らを責められませんわね(笑)

もちろん
猫達を責める気も毛頭ないんですけどね(笑)

えっ?

家庭内における私の立場・・・ですか?


えーっと。
次の話は・・・(目がうつろ)


はっ!?(我に返った)

そ、そろそろ結びにしましょうかね?

あは、あはは・・・あはっ(挙動不審)



さてさて
娘さんのいるご家庭の皆さん。
今年はどんな雛祭りを過ごすでしょう?

かつて、娘さんだった皆さん。
今年はどんな雛祭りを過ごしますか?


何だかんだ言っても
この日ばかりは
男性諸氏の出番はありませんね。

お雛様軍団の仰せの通り
「はいはい」と
大人しくしていましょうか・・・ね。

あっ、いつも・・・か?(笑)




「死んだ子の歳を数える」
そんな言葉がありますが
子供だって死んだ親の歳を数えます。


母が亡くなって
あれからもう二十三年。
生きていたら
今日で八十一歳の誕生日を迎えます。

享年五十八歳。

後、一年半程もしたら
私も母親の年に追い付きます。


自分がその歳に近づくにつれ
今更ながらに
こんなに若かったんだと思い知らされます。



「忘却とは忘れ去ることなり。
 忘れ得ずして忘却を誓う心の悲しさよ」

大昔の有名なラジオドラマの冒頭の
余りに有名なナレーションの一説です。

もちろん
大事な人、愛した人が亡くなって
何年経とうが忘れる事はありません。

ただ
いつまでも思い出す度に悲しんでばかりでは
亡くなった人だって悲しむだけです。

そこに至るまでの時間の長短はあるにしても
人はいつか自分の心の中に
故人の想い出の仕舞い場所を見つけます。

それは忘れる為の作業では無くて
悲しみを受け入れる為の作業なのかも知れません。

悲しみを受け入れる事で
初めて心に区切りをつける事が出来るのです。

そして
何かキッカケがあった時
そこで心の仕舞い場所からそっと出してきては
故人を懐かしんだり偲んだりするのです。

故人の好きだった歌を聴いた時だったり
故人の好きだった花を見かけた時だったり
それは故人との想い出の場所だったり
或いは季節だったり
もちろん、命日だったり
そのキッカケは人によっても違うでしょうし
又、幾つもあるでしょう。

私にとっては
母の誕生日である今日が
そんなキッカケになる日のひとつでもあります。

なので毎年この日に決めて
同じタイトルで母の事を書いています。

(何故、命日では無いのか?
 それに関しては過去に何度か
 ここで触れていますので割愛します)

 *ホームページ『夢の樹舎』内
  <エッセイ>のコーナーに
  過去タイトルを掲載しています。



子供が生まれた時から
子供にとっては親は親です。

私も親としてのと父と母しか知りません。

奇しくも
父と母の若い頃の一端を知る事になったのは
母が最初の入院をしていた頃でした。

その時の事は
『夢の樹舎』の中にも載せています。


 *下のタイトルをクリックすると
  本文が開きます。
    ↓

  「手帳」


そして今
親になった自分を思い返してみると
学生時代、社会人になっての独身時代から
ここに至るまでは色々な事がありました。

たくさんの後悔や心の葛藤。
様々な出会いや別れ。


きっと
そんな事もたくさん有ったはずなのに
母はそんな事を億尾にも出さず
毎日、家族の為に
笑顔で
そして黙々と働いていました。


その母の歳に
もう少しで追い付こうとしているのに
私は
そんな風に強く生きられているんだろうか?


「ねぇ?」

そっと空を見上げて母に問いかけてみる。

今年も又、心の中に
桃の花をひと枝、飾りながら・・・





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