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夢の汽車に乗って
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yumenokisya

Author:yumenokisya
現住所 北海道十勝国

 好きな言葉は
『なんとかなるべさ』

 そう、生きてさえいれば
何とかなるもんです。。。
   


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健康食品やダイエット食品・器具
育毛・増毛剤のCMなどでは必ずといって良いほど

「使用者の感想であり
効果・効能を保証するものではありません」

とか

「効果・効能には個人差ががあります」

など
とても”小さく”ですが注釈文が表示されています


確かに

「必ず効く」とか「絶対効果が有る」とか言ったら
それはほぼほぼ”ウソ”になりますよね


人によって体質や遺伝とか
或いは生活習慣や生活環境など
様々な阻害要因と言うのは必ずある訳ですから

ウソをついているつもりでは無いにせよ
効果が無ければ
誇大広告だと訴えられるかも知れません


つまりは
効果・効能が現れない場合でも
こうして予め
言い訳(自己弁護?)をキチンと表示する事によって
会社側の言い訳にも出来るのですが

実は
公正取引委員会の景品表示法によって
不当な表示や
消費者に誤解・誤認を与えるような文言は禁止されています


さて、ここからが本題となる訳ですが
衆院議員選挙が行われますね


いつも思うのですが

候補者の演説での公約や
政党の掲げるマニフェストにも
公正取引委員会のチェックが
あっても良いのではないでしょうか?

<公約とは公開の場で公衆に約束をすること
 マニフェストとはその為の具体的な施策や
 数値目標・実施期限目標等を明確にした物>


選挙投票前の候補者の話の中には
(ウソをついているとまでは言いませんが)
かなりの詭弁や
大風呂敷(誇大広告)ってあると思いませんか?


選挙運動中は耳障りの良い言葉ばかり並べて

「当選したら後は知らないよ」

みたいな?


「いかに上手に選挙民を騙せるかが勝負」

みたいな?


えっ? 言葉がキツイですか?

なら言葉を変えましょう

「いかに選挙民に都合の良い錯覚を与えられるかが勝負」

とかね


「本当に出来るかどうかなんて問題ではない
 出来なくても<反対勢力が>とか言ってりゃ済むんだし
 それより今は選挙民が喜びそうなことを言っておこう」

まさか、そんなことを思ってはいないですよね?


現実に
選挙中はあれだけ下げていた頭
あれだけ交わしていた握手
庶民派を振る舞うかのような満面の笑顔

それが選挙が終わった後は
いつも間にか
<とても偉そうに>ふんぞり返ってらっしゃる方

いますよね?

一説によると
選挙中に候補者がしている白い手袋ですが
あれは実は”選挙民と直接手を触れたくない”から
なんて話もありますが案外本当かも知れません
(あくまでも個人の感想です)


確かに
議員は当選すると
何故か<先生>なんて呼ばれたりします

(私には議員が何故<先生>なのか
 その意味が分からないのですが)

議員と言うのは市民・国民の代表なだけで
議員になったからって
それが偉い訳じゃありません


もちろん
日本は言論の自由が許される国です

何を言おうと自由ですし
当選しても党(組織)の中では
色々な制約もあるのでしょう


でも
政党や議員候補者の公約(マニフェスト)って
天気予報とは違います

<晴れ、時々雨>

だとか

<雨の確率は30%>

結果

「天気予報が外れたね」

そんな風な曖昧なことでは困ります


ましてや
具体的な根拠も無しの
<絵に描いた餅>では論外です


国民の大事な一票を投じた訳ですから
議員には得票数の分だけの責任は
最低限あるはずです

それは忘れて欲しくはないと思います


それがキチンと出来ないなら
せめて<正直>に公約(マニフェスト)にも

「党及び候補者の楽観的希望であり
効果や成果を約束・保証するものではありません」

とかぐらいは書いておいて欲しいですね

誰にも読めないような”小さな字”ではなくね


さてさて
もうすぐ選挙です

難問山積は解りますが
山に埋もれてしまわないようにお願いしますよ

いや、それどころか
難題・難問を山に埋めて知らんぷりだけは止めて下さいね

本当に頼みますよ
国民の生活が掛っているんですから!


おっと!?
どうした、今日の私?

こんな真面目で良いのか?

いやぁ~
理痴的なところって
普段はなるべく隠すようにしているんですが

いやぁ~
知らないうちに滲み出ちゃうんですね~

ん?

理痴的? 

えっ? えっ<痴>ってなんだ???

(お前の本性じゃないの?)←影の声


ギクッ!?


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会話

相手の言葉に対して
何でも必ず否定から返事をする人と
肯定から返事をする人っているよね?


「でも」

「そうだね」


後に続く言葉が同じだとして
どっちが相手に受け入れられるかな?

答えはそう、みんな判っているよね





相手の言葉に対して
何でも否定から返事をする人は
会話自体を望んではいないのかもしれない


「いや」

「違うよ」


否定は否定しか生まないし
会話をそこで切ってしまうだけだ

切ってしまうのが会話だけなら良いけどね





相手の言葉に対して
何でも肯定をすべきだとは思ってない
違うと思う事はちゃんと違うと言って良いんだ


「判るよ」

「そこだよね」


いったん肯定をする事で会話は続く
そうしたら次の問題点も解決方法もきっと見えてくる

相手の言葉を聞く耳だけは持っていたいよね


関わり

良い意味でも悪い意味でも
人は他人を人生の鏡として
或いは
その生き方の道標としながら生きている。

他人の影響を受けて
自ら変わる場合もあれば
知らずと変わっている場合もある。

直接か間接かはともかく
人は
他人によって支えられ
他人によって導かれ
他人によって活かされている。

時には
他人によって傷付けられたり
他人によって欺かれたりもするけど
それでも人は
他人と関わらなければ生けてはいけない。

仙人のように独り山の中に籠らない限り
人は他人との関係の中で生きるしかないのだ。

だから
例え、どんなに傷付けられたとしても
欺かれたとしても
「他人に人生を変えられた」
などと、嘆いてはいけない。

他人を否定することは自分を否定することになる。


その他人も
自分が選ぶことの出来る相手もいれば
自分では選べない相手もいる。

でも
考えようではあるけど
不要な人と言うのはいない。

相手のことをどう捉えて
そして、どう考えていくのか?

そしてそれをどう自分に重ねていくのか?

それは
あくまで自分次第なのだ。


「関わり」は「拘わり」とも書く。

つまり、”こだわり”である。

他人との関わり方は拘わり方でもあるのだ。


人は良くも悪くも
他人との関わりの中で生きている。

変わったり、変えられたりも確かにあるけど
だからこそ
相手との関わり方には拘っていきたいと思うのだ。


もし

「想像」と「空想」と「妄想」の関係を式で表すなら
その関係は
想像>空想>妄想と表すことができるだろう

つまり

その全体を大きな円で考えるなら
一番大きな円は想像であり
空想は想像に含まれる一部で
妄想は空想に含まれる一部である

しかし

ここで先の式をもう一度見て欲しい

想像>空想>妄想

確かに

大きさで考えるならば先に書いた通りなのだが
見て欲しいのは「>」

「>」を矢印と見た時
想像の向かう先は最後には妄想となっている


分かりやすく順序立てて言うなら

始めは穏やかな
いや、もしかしたら
単に「何となく」とか「ぼんやりと」かも知れないが
想像するところからそれは始まっていく

その後

その想いは空を駆けるが如く拡がり
自由に或いは時すらも超えて
やがてより深みへと心を誘っていく

その行き着くところこそが妄想という訳だ


ただ

ここで難しいのはそれらの境目である

たぶん

誰もが
「ここまでは想像」
「ここが空想」
「ここから先にいくと妄想になるな」
なんていちいち考えたりはしないだろう

むしろ妄想族は思う

想像と空想
そして妄想の間を
自由に行ったり来たりするのが妄想族の
妄想族たる所以なのだ・・・と


確かに

妄想というのは
想像の中の更に空想の中の
ホンのコアな部分に過ぎない

なので

妄想ばかりを口にしていると
多くの人には受け入れられずに
時には<オタク>だとか<変態>だとか
無用なレッテルを貼られバッシングを受けたりもする


しかし

向かう先が学問や芸術だとすると
途端に見る側の評価は変わっていく

例えば

「人生とは」とか、「生きるとは」とか
人の生と死などを突き詰めて妄想するのが哲学者であり

物事の全てを数理で証明をしようと
妄想を働かせ追求をするのはそれは数学者であり

例えば

ひとつの生き物に固執をして突き詰めたらそれは生物学者であり

人間社会を俯瞰して
なおかつ妄想を統計に置き換えられるのがそれは社会学者であり

己の妄想を具現化しようと苦悩するのは芸術家であり
その妄想を文字に起こせるのが小説家であると言える

彼らは皆、オタクであり
そしてまた或る意味では須く変態でもあろう


ただ

向かう先が違うだけで人の評価は変わる

それは紛れもない事実ではあるが
真の妄想とは何物にも縛られない自由行動そのものである

人の評価に左右をされてはいけない

恐れてはいけない

つまり

人の評価など気にする必要はないのだと



と、どこぞの妄想族が喚いていた

何だかんだと屁理屈を付けて・・・?





It's my Fantasy !


シルバーウイークも定着してきたんでしょうかね。

いやね、そういや私も3連休。

中には「この機会に」ってな感じで休みを取って
9連休にしちゃうなんて強者もいたりするんでしょうかね。

でもまぁ、私的に言えばコロナ禍が続く中
リモートワークも当たり前になって来たこともあってか
何だか最近は曜日感覚がおかしくなりつつあります。

そこへもって週に2日も祝日があると何かますますね。
平日の祝日が嬉しいのかどうかも怪しくなるんですよね。

そこはまぁ私の根っからの小心者、小市民的気質でしょうか。


「シルバーウイークはどうする?」

そう訊かれて

「いや、まぁ・・・カレンダー通り・・・かな」

なんてね。


昭和世代のオジサンは用事も無いのに休みを取るのって
何だか抵抗があるんですよね。

有給休暇は労働者の権利とは分かっていても
用事が何も無いのに休みを取るのって
罪悪感とでも言うのか、何だか自分だけサボっているみたいな。

何かね。

でも、今更この性格だけは変えられないでしょう、きっと。


私は現役の会社員ですし
幸か不幸か二人の娘は未だに独身で私に孫はいません。

なので、ジーサンでは無いつもり120%なんですが
若い人から見たら私なんぞも立派なシルバーなんでしょう。

気持ちなんかはまだ20代の頃と一緒なんですけどね。

えっ?

そういうのが、そもそもオジサンですって?

まぁ、ジーサンじゃなきゃオジサンで良いですよ。


シルバーと言えば
今夏はオリンピック、パラリンピックがありましたね。


まぁ、オリンピックに限らずですが
スポーツの大会ではメダルと言うと
金メダル・銀メダル・銅メダルとあります。

この中で唯一
負けて貰うのが銀メダルなんですよね。

銅メダルも
準決勝で負けて貰うという場合もありますが
殆どは三位決定戦で勝つと貰えます。

でも
銀メダルだけは勝って貰うということがありません。

もちろん、銀メダルだってすごいことです。
なんせ二番ですからね。

もっと喜んでも良いはずなのに
銀メダリストの笑顔は98%の笑顔・・・
そんな風にも見えてしまいます。

銀メダリストの悲哀とでもいうのでしょうか?
そこに込められた悔しさは
きっとアスリートにしか解かり得ないのかも知れません。


銀の元素記号は「Ag」
これはラテン語の「argentum」に由来し
意味は「明るい」「輝く」

可視光線の反射率は金属中で最大を誇り98%と高く
その美しい金属光沢は古来人々を魅了してきました。

遥か大昔のことではありますが
金よりも銀の方が価値が高かった時代もありました。

金製品の上から
銀メッキを施したなんてこともあったそうです。

これは自然金に対して自然銀の方が稀だったからです。

ところが産出技術、精錬技術が発達してくると
立場は逆転しました。

産出量が増えるに従って安価になっていったのです。
しかも、純銀は柔らかすぎて酸化もしやすかったので
他の金属との合金として用いられることが多くなり
益々大量に生産をされていくようになったのです。

その頃から金の方が上という価値観が出来上がりました。


「明るい」「輝く」の意味を持ち
尚且つ、美しい金属光沢をもっているにも関わらず
銀はどこか悲哀めいた風に用いられるのは
そんな銀の歴史と関係があるのかも知れません。

銀メダリストの悲哀と書きました。

シルバーシートに代表されるように
シルバーは老人を指すようにも使われます。

でも、それは悲哀なのでしょうか?

銀メダリストにはいっそう輝く未来を。
老人には尚いっそうの明るい未来を。

銀は
もっと上を目指せるということを
もっとその先にある幸せを
私達に教えてくれてもいるのです。


さぁてと、私も今更メダルは無理でしょうが
渋い大人の男を
人生のいぶし銀でも目指すとしましょうか。

まだまだ先は長い! ・・・たぶん。


季節の終わり毎に行われている
季節達による恒例の「季節割り振り会議」

さてさて、今回はどんな事になりますやら・・・



 ワイワイ、ガヤガヤ・・・

 すったもんだ・・・ホイサッサ・・・

 でさ・・・あーだ、こーだ・・・



議長の太陽が着席をすると
<オホン>とひとつ大きく咳払いをした。

「皆さん、静粛に!
 これから次季の割り振り会議を始めます。
 先ずは・・・今回は秋の番でしたね?
 では、主張があればどうぞ」

秋は促されて起立をすると一同を見渡した。
そして静かに語り始めた。

「夏さん、先ずはお疲れ様でした。
 ただ、あなたは少々無茶が過ぎましたね。
 あの猛暑日の連発はやり過ぎです。
 お蔭であちらこちらで集中豪雨も起こるは
 竜巻は起こるは、台風は我が物顔で闊歩するは
 国民の皆さんも夏にはもうへきへきしていることでしょう。
 今年ほど私が待ち望まれている年は無いのです。
 そこで私は提案します。
 今年の秋はズバリ五か月を要求します!」

「な、何を勝手なことを!
 お前だけの季節じゃないんだぞ!」

興奮で顔を赤らめて叫んだのは冬だった。

「だいたいだな!
 お前が五か月も居座っていたら俺はどうするんだ?」

秋は涼しげに言った。

「冬さん、良いですか?
 ハッキリ言って
 誰もあなたを待ってなんかいませんよ。
 寒い、冷たい、おまけに雪ですか?
 北国の人はストーブの灯油代もかかるし
 何より、雪かきを喜んでいるでも?
 冬道の運転をみんな楽しんでいるとでも?
 そんなことは無いでしょ?」

「だ、黙れ!
 北国の人達は
 ウインタースポーツが出来るのを心待ちにしているぞ!
 雪祭りだって観光客は沢山来るじゃないか」

「それは一部の人ですよ。
 だからって冬が沢山な必要は無いじゃないですか。
 山にだけ雪を降らすとか、違いますか?
 ねぇ、みなさんはどう思います?」

秋は他の季節に問いかけた。
するとそれに夏が答えた。

「秋さん、あなたは横暴だ。
 日本ほど四季の美しい国は無いのです。
 四季それぞれのバランスが取れていればこそ
 みんな安心して暮らすことが出来るのです。
 その意味では夏は暑く冬は寒く
 その合間を春と秋が上手く調整する。
 それが自然の道理です」

「悪いけど、今年のあなたに
 道理を問う資格はありますかね?
 今年の夏はいつものあなたでしたか?
 いや、私の記憶が正しいのなら
 去年も一昨年もあなたは無茶ばかりでしたよ。
 ホントにちゃんとバランスを取っていたのですか?
 あれで? 私にはとてもそうとはね」

「そ、それは・・・」

「まぁ、まぁ」

そう言って話に割ってきたのは春だった。

「確かに、今年の夏さんは少々やり過ぎでした。
 あー、夏さんはちゃんと反省してくださいよ?
 でも、だからと言って
 秋さんが長く季節を取ったら
 今度は冬さんはどうすると思います?
 次の会議で、こう言うに決まっています。
 『秋のせいで俺は二か月しか冬を出来なかった。
  今年は六か月は譲れないぞ!』ってね。
 みんながそんな風に
 自己主張ばかりしていたらどうなりますか?
 困るのは日本国民のみなさんですよ。
 秋さん、違いますか?」

「う、うん・・・まぁね」

「私達は愛してくれる国民があってこその
 日本の四季じゃありませんか?」

「しかし・・・わ、解ったよ。
 それじゃ、今年の秋は三か月。
 これは譲れないギリギリの線だ」

議長の太陽は言った。

「冬さん、いかがですか?」

「しかし、それでは私の立場が!」

「良いじゃありませんか。
 秋さんと冬さんそれぞれ三か月ということで。
 国民のみなさんには夏のお詫びを兼ねて
 <今年の冬は暖冬>ということで告知しましょう」

「し、しかし・・・」

不満そうなのは冬。
何とも納得がいかない様子です。
無理もありません。
今までは東北・北海道は冬の独壇場で
誰も文句は言わなかったのですから。

太陽は一同を見渡すと
又、<オホン>とひとつ咳払いをした。

「では、今年の秋と冬は三か月づつということで
 みなさん、異論は無いですね?
 それでは広報さん、至急気象協会に連絡を。
 <今年の秋は長く冬は暖冬傾向でしょう>
 以上で・・・」

「ちょっと待った!」

手を高々と上げたのはやはり冬でした。

「どうしました?」

冬は立ち上がると太陽に向かって言った。

「なんだ? 暖冬、暖冬ってさ。
 良く良く考えたらだな。
 お前がシッカリしないから
 温暖化なんて羽目になったんじゃないのか?
 温暖化にさえなってなかったら
 俺はもっともっと北国で悠々と出来たのに。
 ヤイ、太陽さんよ! どうしてくれるんだ?」

「そ、そんなことを言われても・・・」

しどろもどろになりながら太陽は答えた。

「わ、私だって、何も好き好んで
 暖冬にしたい訳ではありませんからね。
 温暖化と言えば私だって被害者なんですよ。
 私だって冬くらいは力をセーブして休みたいんです」

「じゃ、温暖化の責任は誰が取るんだ?」

冬はそう言いながら一同を見渡した。

「・・・」

そこに夏がそっと手を挙げた。

「あの・・・
 そもそも温暖化って人間が撒いた種ですよね?
 なら、別に私達が気にしなくたって
 好きなようにやれば良いんじゃないですか?」

「そうは言ってもだなぁ・・・」

と、太陽は渋い顔。
春は大きく頷くと一同を見渡しながら言った。

「いや、夏さんの言う通りかも知れません。
 これは我々日本の四季の存続に関わる大問題です。
 このまま温暖化を放っておく訳にはいきません。
 我々だってペースを乱されたくはありません」

「じゃ、どうするつもりなんだ?」

「確かに夏さんはやり過ぎでしたが
 人間に事態の収拾が付けられないなら
 そう言うのも必要なのかも知れません。
 人間が温暖化を危険だと認識するように
 いっそ秋さんは四か月で冬さんは二か月。
 その代わり冬さんは思いっきり暴れて結構。
 日本海側には豪雪、太平洋側には極寒とかね。
 それから秋さんには台風の連波と
 その後は秋雨前線を停滞させてもらいましょう」

「なるほど」

「じゃ、気象協会には何て通達する?」

「<台風から秋雨前線と続く長い秋の後
  冬は短いが北極と南極がいっぺんに来日します>
 こんなところで良いんじゃないですか?」

「異議無し!」




なんてことにならなきゃ良いのですが。

でも、すでにここ何年か
毎年日本の何処かで大きな自然災害が起きています。

しかも何度も。

今更かも知れませんが
異常気象が「例年並み」にならないように
ただ祈るばかりです。

併せて、台風被害、豪雨被害に遭われた皆様には
心よりお見舞いを申し上げます。

せめて今年の冬は穏やかな冬になりますように。


慣れ

どうでも良いように見える事の中にだって
案外、大切な事は有るんじゃないかなぁ~

当たり前過ぎて
ただ気がついていないだけでね



最初は不思議だなんて思っていた事も
いつかそれに慣れてしまうと
もう、不思議だなんて誰も言わなくなるよね

同じように

どんなに楽しい事もどんな幸せすらも
慣れてしまうと普通の事になってしまう

それじゃ逆に

どんな不幸も辛い事も
それが続けば普通の事になって
いつか嘆く事さえも忘れてしまえるんだろうか?



慣れと言うのは
良く言えば順応だけど
悪く言えば麻痺しているという事だね

慣れからくる思い込みが
新しい芽を摘んでしまう

多分、そんな事ってあるよね



「つまらないなぁ~」

そう感じるのは
いつも同じ所を同じ見方で見ているからで

少しだけ目線を変える事で
きっと
今までと違った
新しいものが見えてくる事だってある

そして
大切な事ほど
案外、そんな所から見つかる気がする



新しい発見も意外な一面も
今まで気がつかなかった事も
見方を変える事で見つかるかも知れない

可能性の問題だけど

もしかしたらね



それはきっと
人と人との関係でも同じかも知れないね



一秒

たった一秒の事なんて
誰も気にする人はいないよね

そんな事を考える間もなく
一秒なんて簡単に過ぎてしまうものだし

たった一秒にこだわって
何時間も無駄にしてしまう事の方が
それこそ本末転倒だしね

第一
一秒で出来る事なんか何かあるんだろうか?



でも、それじゃ
どうして<一秒>なんて存在するんだろう?



もし
一秒が本当に必要のないものなら
一秒なんて単位は存在してはいないはずだね

だけど
一秒は確かに存在している



一秒の定義は人間の作ったモノ

定義は定義として一秒という単位を説明するのには必要だ

でも、だからと言って
その存在を無機質なモノに決めつけるのはどうだろう?



「一秒は偶然にも人間の標準的な心臓拍動の間隔に近い」
なんて言う人もいる

日時計を観測して一日を分割して決めただとか
セシウム原子時計でどうとか
そんな学術的な解答よりも
心臓拍動の間隔と言われた方が納得出来てしまうのは
何でだろうと思ったりもする

それは多分

正確な時計で精密に計った一秒よりも
例え、曖昧であっても
自分で感じる一秒の存在こそが生を実感出来るからなのか



<一秒>

それ自体は
取るに足らないほどの小さな存在だけど
絶対に無くてはならないもの

その一秒から全てが始まって
そのたった一秒が
やがて大きな時の流れを作っていく


冠言葉

初めて笑った

初めて寝返りをうった

初めて立った

初めて言葉を喋った etc



人は生まれてから
幾つもの<初めて>を経験し、体験し、学習をして
そして成長を重ねていきます


その<初めて>は多くの場合
周りに笑顔を与え、周りに感動を与え
そしていつも周りを幸せにさせてきました


やがて成長と共に
この<初めて>は周りのモノから
自分のモノへと変わっていきます


喜び、驚き、感動、悲しみ、切なさ、辛さ・・・


<初めて>は
必ずしも嬉しいこと、楽しいこと
そして幸せなことばかりじゃないと気づいた時

それがきっと内面の成長だったのだと思います



人生も半ばをとうに過ぎて
気が付けば、アッという間に六十代を迎えて幾・・・ゴニョゴニョ

と、ともあれ

この歳になると
<初めて>のことなんて探す方が難しいですね


これからは歳を重ねる度に
冠言葉はむしろ
<初めて>よりも<最後の>となっていくのでしょうか


でも、それは仕方のないことでもあります

しかし、それならそれで
その<最後の>を
少しでも有意義なものにしていけたら良いんですよね


どうせなら前向きに考えた方が良いし
どうせ受け入れるなら自分の為に受け入れましょう


そう

人生は死ぬまで続いていくものだし
そして
明日のことは誰にもわからない

だから面白い

現実や実際のところはともかく
何に対してだって
最初っから否定することだけはしないでおきましょう

そう生きた方が良いです


”最後のあがき”と言われるその日まで




2008年に日本でも封切りされた映画

『最後の初恋』

原作者ニコラス・スパークスは語っています

<幾つであっても、
 思いもよらない時に愛に出会うもの。
 運命の人と実感するのに時間は必要ない>


ん~ 良い言葉です

夢を与えてくれる言葉です、よね?


こんな<最後の>なら素敵です

そう思いませんか?


もっとも
恋愛じゃなくてあくまでも初恋ですからね

片想いとか
私が得意な妄想・・・とか?

そう
最後の初恋は思いっきりプラトニックが良いかな

清く正しく美しく!




最後の恋愛はその前に・・・おっと!?


八月十五日に

終戦記念日

記念日と言ってしまうには
いささか抵抗を感じるのですが・・・


戦争を知っている大人達が
戦争を知らない子供達に伝えるモノ

この時期になると
毎年繰り返される
新聞やTVの戦争特集

でも、それらは
今が平和で有るが故に
”特集”に出来ることなのだということ

それらは
何処まで戦争を知らない子供達に伝わっているのだろうか?

いや、むしろ大人達は
果たしてそれらを今も教訓に出来ているのだろうか?

旬の果実のように
毎年同じ時期に話題は世間を賑わすが
しかしそれらは一過性で
季節を過ぎるとマスコミでも取り上げられなくなる


戦争を知っている世代よりも
既に戦争を知らない子供達の方が多くなっている

かく言う自分もその一人

戦争を知らない子供達も
今では子を持ち孫を持つようになった

子を持つ親になった今だから余計に思う

誤った歴史は繰り返してはいけないのだと


しかし、世界中のあちらこちらでは
今も戦火は繰り返されている

その中に
日本が自らの意志で飛び込んでいかないことを
僕達は祈るしかないでいる



そして、八月十五日はお盆の中日

亡き祖先を年に一度迎える季節

亡き人を思い
亡き人を慕い
亡き人を弔う

家族、友人、恋人、知人・・・

亡き人への思いも又、人それぞれ



そんな歌では無いけれど
ふと、頭に浮かんだ歌詞がある
この季節にふさわしいのかどうかは分からないけれど・・・


  あの空に浮かぶ月
  今は欠けているけれど
  生まれ変わって
  また 満ちるだろう

  夜の森を翔んでゆく
  眠らない鳥達よ
  満月の夜に
  帰っておいで

  何もかもが生まれ変わるよ
  風も星も繰り返す波も
  命は遠い空から降りて
  地上に咲いた幾千万の花


  夜の河を泳いでゆく
  傷ついた魚たち
  生まれ変わって
  戻っておいで

  別れていった人も
  帰ってきておくれ
  肩を抱き合って
  許しあおうよ

  何もかもが めぐり合えるよ
  生きていれば 旅を続ければ
  命はやがて空に昇って
  地上を照らす 幾千万の星


    *河島 英五  「月の花まつり」より



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